Photo: Makiko Nawa
「あの日」を回想して思うこと。
GENERATION TIMES編集長
伊藤剛
実に6年ぶりに「あの日」のインタビュー原稿を読み直しました。読み終わって心の中に浮かんだのは、「感謝」と「後悔」という二つの言葉。感謝というのは、言うまでもなく、見ず知らずの自分に対して、とても素直に、時に笑いも交えながら、最後は思いの丈をぶつけるかのような熱を持ってベアテさんが話してくれたこと。後悔というのは、もう二度と彼女に質問をすることができないという圧倒的な事実に対して。今なら、今だからこそ、唯一の生き証人であったベアテさんに聞いておくべきだったことがまだまだある気がしてなりません。あの日の自分の未熟さへの強い後悔です。
ベアテさんにお会いしてから、今もなお余韻のように僕の心象風景として残っていることは、彼女の「ふつうさ」です。それは、僕自身が勝手に抱いていた「GHQ」とか「憲法」というものへの強い偏見ゆえに感じたギャップかもしれません。日本人にとって、どこか政治は遠いもので、まして憲法を作った人などというのは、歴史の教科書に載るような特別な人だと思っていました。極端に言えば、フィクションの世界。でも、読んでいただければ分かりますが、彼女はいたって普通の人です。政治家でも法律の専門家でもなく、日本文化を愛し、ただただ日本の女性の未来を願った人でした。
日本では今、改めて「憲法改正」の議論が沸き起こっています。政治家が主張する「押しつけ憲法」の主張は、あれから6年経ってもまったく変わっていません。今から150年ほど前。近代化を果たした日本は、急速に西洋の文化を日本の暮らしに取り入れてきました。季節ごとの「洋服」の着こなしを楽しみ、街中に溢れる「珈琲ショップ」をこよなく愛する僕は、それらを「押しつけられた文化」と感じることはありません。であれば、物質的な「文化」だけでなく、優れた「知恵」に対しても同じように感じる普通の感性を持っていたい。それが、僕がもっともベアテさんから学んだことのような気がしています。
※ 本原稿は、ベアテ・シロタ・ゴードン宅で2007年4月26日に行った5時間に及ぶ インタビュー取材をもとに、読みやすさに配慮して適宜、加筆・修正をしています。
※ このインタビューのPDF版は以下よりダウンロード頂けます。
※ ベアテ・シロタ・ゴードンさんロングインタビュー (PDF版)
※ また、このインタビューの録音は以下よりダウンロード頂けます。
※ beate-long-interview.mp3(収録時間:5時間20分、ファイルサイズ:約307MB)
インタビューアー:伊藤剛(GENERATION TIMES編集長)
コーディネーター:渡辺真也
取材テープ起こし:内坂香織(PART1)、坂本有理(PART2)、土居厚子(PART3)
序章
伊藤 初めまして。今回、僕はベアテさんにお会いするためにニューヨークにやって来ました。
ベアテ 本当? とても光栄だわ。
伊藤 渡辺さんから今回の展覧会の企画を初めて聞いた時、とにかく一度ベアテさんに会って、いろいろ話を聞いてみたいと思いまして。頻繁に日本に来ているとは知らなかったものですから。それで一年程前から「機会があれば僕も行くから」と伝えて、ようやく一年越しにそれが実現して今日ここに訪問させていただきました。
ベアテ それは良かったわ。本当にようこそ。今まで随分日本に行きましたよ。そう言えば、もし何か飲み物を飲みたかったら、そこの冷蔵庫から自由に飲んでくださいね。はい、それじゃ主に聞きたいことは何でしょう?
渡辺 今回の訪問に合わせて、伊藤さんは憲法についてとても勉強してきたみたいなんです。
ベアテ それじゃあ、あなたの方が良く知っているかもしれませんね。
伊藤 とんでもない。僕は1975年生まれで、今は31歳なんですが、僕らが子供の時には学校の授業で「憲法」についてあまり習った記憶がありません。正直、あまりこう憲法について意識することはなく暮らしてきました。でも、ちょうど高校生くらいの時に『湾岸戦争』が始まって、その時にメディアで「憲法9条」が話題になって、それ以来僕の中でも「憲法=9条」みたいになってしまって、あまり憲法を身近に感じる事ができなかったんです。今回、自分なりにいろいろな資料を読む中で、「あの時に憲法を作った人が実際にまだ生きている」という事実が僕の中ではすごく衝撃的なことで。一気に身近になったというか。ほとんどの人は、もう亡くなっていますよね?
ベアテ そうでしょうね。多分、私一人だけだと思います。実際に作成した人で生きているのは。当時、私はGHQの中でも一番若かったですから。
伊藤 GHQで憲法草案の中心的な人物だったケーディス大佐も、若かったとは言え当時40代ですよね?
ベアテ はい。確か、90歳くらいで、今から10年程前に亡くなられました。ちょっと調べてみないと正確なことは分からないけれど。
伊藤 去年、日本では「白州次郎」の本が改めて話題になりました。
ベアテ あの人は亡くなられたの? あの人のことは良く知っています。彼はとてもこう、英国人みたいな人でね。ローストビーフが好きだったのを覚えてるわ。
伊藤 そうですか。僕は、白州次郎さんのことも去年メディアが取り上げたことで初めて知って、ベアテさんの存在も彼の本を読んで知ったんです。それで、白州次郎さんを始め、あのマッカーサーや吉田茂など歴史の教科書に出てくるような人物と実際に会って話していたベアテさん本人に、とにかく一度お話を聞きたいと思ったのが、今回の一番の目的なんです。
ベアテ 光栄だわ。ところで、英語はあなた、日本で習ったんですか?
伊藤 学校で受験勉強した程度です。もし、ベアテさんが話す上で英語が楽でれば、英語で話して下さい。でも、日本語は今でも達者なんですね。
ベアテ ええ。だって、しょっちゅう日本に行くからですよ。それと日本のお友達が随分いるんです。ニューヨークにも。だから、私はよく日本語を使っています。
渡辺 確か、ドイツ語もペラペラで、フランス語も話せますよね?
ベアテ ええ。フランス語は全然使わないけど話せます。全部、子供の時に習ったんです。スペイン語だけ16歳の時に。他の言語は、全部私が6歳から15歳までの間に覚えました。
伊藤 それは日本に暮らしていた時期ということですね。
ベアテ そうです。日本で習いました。だから、幼いうちに習うと忘れないですね。ちょっとしか覚えてなくても、次にまたその国に戻ると、全部思い出してくるんです。
渡辺 それじゃあ、ロシア語もまだ話せるんですか?
ベアテ もちろん。昨日も確か誰かとロシア語で話しましたよ。もう、私のお父さんとお母さんは亡くなっていますから、ドイツ語は話してないです。ロシア語も普段は話さない。時々フランス語だけ。私たち夫婦でヨーロッパへ行く時は、いつもパリに行くんです。夫がとってもパリが好きなので。だからそういう旅行をする時だけね。でも、ここアメリカでは大体英語ですよ。
伊藤 そうですよね。
ベアテ でも残念。今度何か「倶楽部」みたいなものを作ろうかしら。私みたいな、ちょっと歳を重ねている女性たちを集めて。
伊藤 なるほど。「カンバセーション倶楽部」みたいなものですね。
ベアテ 今みんなで「ブック倶楽部」を作ってるの。それが流行ってるんですよ。日本でもそうですか?
伊藤 それは「読書会」みたいなことなんですかね?
ベアテ そうです。みんなが同じ本を読んで、そして2週間から3週間に一回、誰かの家に行ってお食事をして。
伊藤 日本でもそういう「詩」の朗読会とかはありますね。
ベアテ だから私はね、それを「言語」でやればいいと思うんです。どういう風に人を集めるかは考えなきゃね。以前、「ピアーズ(友人会)」はやっていましたから、どうにかできると思います。ちょうど今思い付いたアイディアですけど、本当に残念なことですよ。私の知り合いにもドイツ語やフランス語を話せる人はいますけど、使わない。それは話す理由がないから。でも、こういう倶楽部を作ればね。まあ、でもこれは重要なトピックではないわね。本題に戻りましょう。もっと大事なことについて話しましょうね(笑)。
PART1「女性の権利」の生まれた背景。
伊藤 聞きたいことがあり過ぎて、何から質問するか迷ってしまうんですが…
ベアテ はい。
伊藤 やっぱりベアテさんを語る時に、まずは「日本の女性」ということについてお聞きしていきたいと思います。ベアテさんの書籍の中でも出てくるように、アメリカに留学して『ミルズ・カレッジ』に行った時に、最初に校長先生が「女性の権利」について演説されますよね? 以来、ベアテさんの人生の中でもいろいろな機会に「女性の権利」について考えることが多かったと思うんですが、日本で憲法を作ることになった時に、『男女平等の権利』にこだわったのは、やはりベアテさん自身が日本の女性が置かれた環境を見て育ってきたことで、「この状況を何とかしたい!」という想いが強かったということですよね?
ベアテ そうです。私が日本に初めて来た時は5歳半だったんですが、アジア人を見たことがありませんでした。1929年のウィーンには、あまりいなかったんです。
渡辺 いなかったでしょうね。
ベアテ 最初に日本に着いたのは、横浜港だったか神戸港だったか忘れてしまいましたが、港に着いた時にいろんな人が歩いてて、「あら、みんな黒い髪の毛!」と思って、みんなの目もちょっと違うので私はママに「あの人達はみんな兄弟ですか?」って聞いたんです(笑)。子供だったから私はよく分からなかったけど、でも多分ママはびっくりしちゃったんですよ。私がそういうことを言ったことに。だから「この子をちゃんと日本の社会に入れなければならない」って思ったみたいで。ママはとても進歩的な人だったんです。だって、東京にはアメリカンクラブがあって、イングリッシュクラブ(英国人会)もあって、ジャーマンクラブ(独人会)もあって、みんなは自国のクラブへ行ってたんです。日本の子供と遊ぶようなことはあまりしなかった。でも、私は最初から日本の社会に関わりました。他のお母さん達はあまりそういうことをしなかったんですよね。
伊藤 日本の子供たちと一緒に遊んでたんですか?
ベアテ 私のパパが言うには、3ヶ月で日本語を分かったそうです。でもそれはね、大変なことじゃないんですよ。5歳半の子供たちのテーマは難しくないでしょう? だからボキャブラリーがそんなに難しくない。パパが言った通り、3ヶ月ぐらいで普通のことについて私はしゃべることができていました。でも、パパとママはそうじゃなくて、随分夫婦で変な日本語を話していましたね。
伊藤 具体的に「女性の権利」にそこまでこだわった理由は、もちろんいくつもエピソードがあると思うんですが、ベアテさんから見ていて「日本の女性が平等じゃない」とか、もしくは、「これは変えなきゃいけない」と思ったきっかけ、ベアテさんご自身が経験した具体的なエピソードはありますか?
ベアテ はい、あります。
伊藤 僕らも、歴史的には日本人の女性にあまり権利が与えられていなかったことや、平等じゃなかったんだろうというのは何となく想像がつくんですけど、具体的にはどんな状況だったんでしょうか?
ベアテ あの、あなたの飲み物ね。もし氷が欲しかったらありますので。私はヨーロッパから来ましたので氷は入れないんですよ。…というのは嘘です(笑)。時々入れます。
それで、具体的なエピソードですね。私は小さい時から「美代さん」という家にいたコックさんからいろんなことを聞いたんですよ。台所へ行くというのは西洋人はやらなかったんです。女中さん達は、行くけどもね。でも、私達は台所がとっても面白い所だと思っていました。美代さんというのは、とっても面白い人だったんです。そしてとても若い人だった。私が5歳半だった時、あの方は18歳だった。
渡辺 若いですね、それは。
ベアテ 美代さんは、ヨーロッパやアメリカのことについては何にも知らなかったので、もちろん英語もしゃべれない。でも、私の日本語が段々と上手になったから、私と話すのは多分面白かったでしょうね、美代さんにとって。そして、美代さんが「今度自分の妹もこの乃木坂の私達の家へ呼びたい」って言うんですよ。大きい家だったから。だから3人で会ったんです、美代さんともう2人。
伊藤 妹さんもですか!?
ベアテ 時々二人、時々三人だった。大体、美代さんの家族の人だったんですよね。だからいろんなことしゃべるでしょ。女性はいつでもそうでしょ? 他にも、私の隣の家の子供達とか、特に女性の人達と遊んでいましたので、朝から晩までね。一緒にいろんなことをやりました。一緒に食事を食べて、お母さんに会って。一つ私覚えているのは、暑い時に私達は「襦袢」だけで外で遊んでたんですよ、あの時。もちろん、日本的なものじゃなく、普通のスリップ。そして洋服を脱いで、庭にこう置いて、羽子板で。まあ何でも遊びました。ヨーロッパ文化から見れば、そういうことするのはいけないんです。洋服を取って、こうね。でもみんながやってたから、私もそれと同じことをやってました。そして、そういう風に段々と日本のカルチャーが何かが分かっていったんですよね。そして今度は、このお嬢さん達が「お琴」や「お花」を習っていて。なぜ、こんな習いごとをしているかというと、日本では女性が結婚する際に必要だってことが分かりました。だから、私も少しお琴を習って、そして日本舞踊も(笑)。
渡辺 ええ? 本当ですか?
ベアテ とっても難しいですよ、日本舞踊は。あなた知ってるでしょ? あんまり大変だったから、辞めました。しかし、多分6ヶ月ぐらいはやりましたよ、一週間に2回くらい。日本流の教え方で、ちゃんと畳の所を歩くのね。ああ、嫌だった。でも、私はバレエとモダンダンスをずっとアメリカ人の先生について、そこで習いました。だからね、私は本当に日本の若い女の子達とお友達になって、何でも話しました。そして、私達はみんなで映画も観に行きました。その時は、アメリカのハリウッド映画がとても人気があったんです。いろんなミュージカル映画。あなた達が知らないような古いものですけれど。「ストコスフキー」って聞いたことあります? 指揮者が「ディアナダービン」っていう。シャンテゥーを歌う映画を作ったんです。タイトルは『A Hundred Men and One Girl』。「A Hundred Men」がオーケストラで、「One Girl」が歌う人。その映画は東京のどこだったか忘れましたけど、帝国劇場とかそういう所で、一年以上それだけを上映していたんです。
渡辺 ロングランですね。
ベアテ そう、一年以上。私達は同じものを観てその映画の話をします。すると、そういう映画は大体ハリウッド映画でとてもロマンチックだったから、私達はみんなもちろん「結婚」のことについて随分話しました。私がびっくりしたのは、その女性達が「私達が結婚する時には、その相手が誰ってことはあまり分かりません」と言ったんです。結婚するその日に会うのが初めての場合もあるし、あるいは一週間前にようやく会うとか。それを聞いて、私の頭では全然理解ができませんでした。だから、美代さんに聞いたり、私のお母さんに聞いたりして。私のお母さんは、随分良い身分の日本のお友達がいました。そういう女性は、大体お金持ちの家から来ている人だったので、あの当時でもヨーロッパへ旅行に行ってたんです。そして帰って来ると、私のママに「ヨーロッパを見てきましたが、いいですね。あっちでは、女性がこう普通に歩いています。男性と同じように、いろんなことをやっている。私達は日本では何にもできません」って。だから、私の家ではそういう会話が頻繁にありました。
伊藤 ベアテさんご自身や、お母さんのお友達から聞いたことの影響が大きかったんですね。
ベアテ もう一つ大きかったのは、私には家庭教師がいたんです。ヨーロッパでは、お金持ちの人だけじゃなく、ミドルクラスも子供がいれば普通のことでした。私の家庭教授はエストニア出身の人だったんです。そして『クリスチャンサイエンス(キリスト教科学)』っていう宗教で、ご存知ですか? キリスト教から出てきた新しい宗派で、病気になってもお医者さんは駄目で、全部拝むことで治るっていう宗派。家庭教師がそういう人だったんですよ。独り身で、全然結婚してなくて。この方もとってもそういうことについて興味がありました。だって、私達は誰も日本のことについてよく知らなかった。だから、私の家庭教師もいろんな人と会って調べていたんです。日本にはどういう習慣があるか? 何をするのか? 私の家では随分そういう話題が出ていました。私のママは当時では割合に進歩的な人だったので、離婚も経験しているんです。
渡辺 そうでしたね。
ベアテ あの当時のヨーロッパでは、あまり離婚はしなかったんです。でも、私のママも日本の女性みたいに無理矢理に誰かと結婚しなければならなかった。相手の人は悪い人じゃなかったみたいなんですけど、ママが愛した人ではなかった。だから、ママがピアノのレッスンで私のパパに出会って、そしてパパを好きになってしまったから「どうしても離婚をする」と言って。けれど、ママのお父さんがまだ生きている間はきっと大変でしたから、ママは「離婚しない」と言って、パパは「待つ」となって。ちょっと日本的じゃないですか? そして、待ったんです。ママが再婚した時に、私のパパはちょうど10歳年が離れていたので、ママは20か21歳で、パパは30か31歳ぐらいで結婚をした。私はその話を家で聞きました。離婚のことは、私が12歳まで言ってくれなかったんです。その時、私達は日本で住んでいて前の夫はウィーンにいたから、子供にそういうことを言わなくてもいいじゃないかと多分考えたんだと思います。でも、1936年に私達はウィーンに遊びに行きました。その旅行前にママがそれを教えてくれました。「私も日本の女性みたいに、お父さんがどうしてもと言ったから結婚したの」とその話を全てしてくれたんです。それが12歳の時。だから、その後私はそのことに大変興味を持ちました。
日本へ帰って来て、男性が道で歩いている時に奥さんがいつも後ろから付いていく光景に、私は「変だ」と思うようになりました。「全然平等じゃない!」ってことも。パパとママはとても平等だったんです、私の家ではね。ママもピアノを教えていて、ママはあまり上手じゃない生徒を教えて、上手になったら今度はパパが教えて。だからこう男性の方が上とか下とかっていうそういう気持ちが、私は全然なかった。だから私は「おかしい」と思ったんです。そして、無理して結婚することは、本当に悪いことだとも思いました。女性にとっては、とても大変なことなんじゃないかって。私は何だかとてもロマンチックな子供だったみたいですね(笑)。
伊藤 でも、ベアテさんが12歳の時にお母さんから「自分も実は最初の結婚がそうだった」という話を聞かされ時というのは、どういう受け止め方をされたんですか? それは“自分自身”のことでもありますよね?
ベアテ それは本当に上手く言えない。多分、ショックだったと思います、すごく。だって、私は「離婚」という概念を知らなかったですから。日本では、そのことについて友達は誰も話してなかったですからね。
伊藤 当時の日本ではそうかもしれませんね。
ベアテ だから、私あんまりよく分からなかったと思います。
渡辺 当時の日本で、離婚をする人っていたんですか?
ベアテ もちろん。
渡辺 いたけれども、男性が…?
ベアテ 男性が決めたら離婚することができる。女性からはそれをできない。
渡辺 受け入れるしかないってことですか!
ベアテ もちろん。だからそれがまた大変だった。
渡辺 大変ですね、それは。
ベアテ でも、私が当時そんなにそのことを考えられたかどうかは分かりません。覚えているのは、ママがそれを汽車の中で私に話をしたということ。13日間乗っていた汽車の中で。
渡辺 ソビエト経由で行ったんですか?
ベアテ シベリア鉄道、あれで行ったの。多分ママの方が大変だったんじゃないかしら? 私にそれを言うのは。私は本当に人として「Innocent(純粋)」だったから。いろんなことを知らなかったんです。全然知らなかった。例えば、私は“あのこと”を知らなかった。「ホモセクシュアリティ(同性愛)」。17歳までその存在を知らなかったんです。今のアメリカなら、赤ちゃんでも知ってるわね。だから、離婚のこともあまりよく分からなかったと思います。けれど、他の国から来てみると「日本女性が圧迫されている」ということは、自分の目で見て知ることができます。日本人にとってはそうじゃなかったかもしれませんが。
伊藤 日本にずっといる人は分からないけれども、外から来ると気づくってことですよね?
ベアテ そうです。外から来ると、それはとても目立つ。いろんな場面で気づきます。例えば、「パーティー」なんかに出てこないんです。奥さんがあまり会話しないんですよ。
伊藤 出てこない?
ベアテ パーティーなどの外出をしないんです。男性だけで来る。私は奥さんのことをよく知っているのに、旦那さんだけが来るの、私の家へ。「なぜですか?」って聞いてみたら、家からあまり外に出ない習慣ってことでした。
伊藤 なるほど。しかし、ベアテさんは海外生活との比較ができるわけですけど、例えばさっき話していた美代さんとかと台所で話している時などに、日本人の女性自身もその状況を「変えたい!」っていう気持ちを持っているという印象を受けましたか?
ベアテ そりゃもちろん。だって、日本ではすでに1885年頃から「選挙」に関する女性運動がありましたでしょ? だから日本には歴史がありますよ。あなた達は知らないかもしれないけど、とてもいろんな女性の運動家がいて、例えば「市川房枝先生」みたいな方達も出てきたんですよ。だからもう、そういう土台があったんでしょうね。
伊藤 なるほど。
ベアテ そういう女性達はすごく苦労して、いろんな活動をしたんですよ。ストライキみたいなことをやって、監獄にも行って。だから、例えば美代さんみたいな人達も、あの人は生まれてからずっとエネルギーに溢れていて、自分で何でもしたい人だったんです。そしてできなかった。私のママがいつも言ってたのは「美代さんがちゃんと教育を受ける機会があったら、頭がとっても良いから“皇后”にだってなれたでしょう」って。それほど美代さんは聡明な人だったんです。何でも自分の力でできる。でも、夫のことはあまり好きじゃなかった。尊敬できなかったみたいです。
渡辺 美代さんは18歳ですでに結婚なさってたんですか?
ベアテ 年齢のことはちゃんと覚えてないですけど、美代さんの夫のことはよく覚えています。子供も2人いました。美代さんも、自分の意志とか関係なくその人と結婚しなければならなかったと言っていました。
伊藤 ベアテさんの本にも書いてありますけど、『密室の9日間』と呼ばれていた憲法草案を作成していた時に、「自分がちょっとでも大事な条文を見落としていたら、日本の女性の未来が変わってしまう」と言って必死に勉強して条文を書きましたよね? あの時というのは、やっぱりベアテさんの中では身近だった美代さんとか、そういう人達の顔が頭の中に浮かんでいたということでしょうか?
ベアテ もちろん。お友達の環境というのが、私にすごく大きい印象を与えたから。私は「フェミニズム」という考え方を当時は知らなかった。7歳とか8歳でしたから。フェミニズムについて理解し始めたのは、それはアメリカの大学に行った時です。そして、雑誌の『タイム誌』で仕事をやり始めてみて、アメリカでも差別があることを学んで。16歳頃くらいから少しずつ理解をし始めました。
伊藤 なるほど。
ベアテ アメリカの女性だってね、そんなにいろんな自由はなかったんですよ。でも戦争が始まった時に、男性が戦争をしているから、女性が男性の仕事を全部代わりにやらなければならなかった。だから、工場に入って、オフィスに入って。戦争の時にいろんな分野に入って、いろんな仕事をやっていました。私の大学の時は、フェミニズムについてのいろんな講演がありました。学長がこういうことを言ったんですよ。「女性が大学行くのは、未来の旦那さんを探しに行くんです」って。そういうジョークが随分あったんです。
伊藤 アメリカで?
ベアテ そう、アメリカで。私は女子大だったから、男性はいなかった。でも、カリフォルニア大学はすぐ近くだったから、そこにいろんなクラブがあったの。「フラタニティ」って分かります? 何て日本語で言うんでしょう、「男子社交クラブ」みたいなのがあって。それで、私の友達の誰か一人がフラタニティの男性に会ったみたいで、そのお嬢さんがフラタニティのお友達に電話して「二週間後にパーティーをするから、男性50人連れて来て下さい」って頼んだんです。私は何だかとっても嫌だった。その50人が来て、こう立ってて…
渡辺 うわ、それは嫌ですね。
ベアテ 私達がこう向かい合わせに立ってね。そして、その男性達が女性を選ぶんです。だから、ちょっと何だか牛みたいね(笑)。
伊藤 確かにマーケットみたいですね。
ベアテ そう、マーケットみたいなかたちで。学長が本に書いていましたが、「あなた達は大学にいて教育があるのだから、それを今度は使わなければいけない。あなた達も、男性と同じようにキャリアを持つことはとても良いことだ」って。そういう考え方が、ミルズカレッジにはありました。
伊藤 なるほど、よく分かりました。
ベアテ もう一つ私が言いたいのは、私はいろんな政府機関に務めていたんです。そういうオフィスには、もちろんたくさんのインテリの女性達がいました。その人達の中には、ヨーロッパから来た人も数多くいました。その人達の中では、私は一番若かったんです。私は15歳半の時にカレッジを卒業しましたから。アメリカではとても早い方です。大体18歳で卒業しますが、私は15歳半だったから約2年半前倒して卒業したんです。だから、どこへ行っても私は一番若かったから、年上だった人達は私のことを妹みたいに何でも教えてくれました。例えば、私は男性と出かける時に「hand holding」はしなかったの。分かりますか?
渡辺 「手を握らない」って意味ですね。
ベアテ アメリカでは、そういうマナーが頭に入ってない(笑)。一緒に歩く時に、こう手を重ねるのはヨーローッパの若い子はやらなかったんです。
伊藤 意外ですね。
ベアテ 多分、アメリカでは高校生頃からそういうことをやっていました。私は最初ドイツの学校に行っていたんですが、先生がよく「アメリカ人はとてもマナーが悪い」と言っていました。女性は高校でもう口紅をつけて、手もつなぐ。そして、キスも時々するって。「それはすごく悪いことなんですよ」ってドラマチックに私達に教えていたんです。それが私にすごい影響を与えていて。その後、私はアメリカンスクールに行ったんですけど、「あぁ、ドイツ学校で言っていた通りだ。こんなに悪いことをしてる!」って(笑)。
二年間だけアメリカンスクールに通って、カレッジに行った頃というのは、私はまだそんな感じだったんです。そのカレッジ時代に、ある海軍の方が私をデートに誘いました。その方は海軍で日本の通訳をやっていたみたいで、日本語を習ってたんです。どこで出会ったのかは覚えていませんが、その方がデートの時にね「出かけましょう」と言って、私の手をこうして重ねてきて、私が「Oh, I’m sorry. I can’t do that.(ごめんなさい。それはできないわ)」って言いました。それからしばらくして、もっと親しくなった後に私に「あなたが“手をつなぐ”ことをしないのは、どういう考えからですか?」って聞くんです。「あなたは“手をつなぐ”とそれで子供が生まれるとか考えているんですか?」って。私は「それはちゃんと知ってます」と答えました(笑)。けれど、私は「そういう教育をされたから、ちゃんとフィアンセになるまで、結婚するまでそういうことはできません」って言ったんです。そしたらその人は「私はあなたと結婚したいんですよ」って。でも「まだ私は17歳だから、もちろん結婚のことは考えていません。だから私とデートしたくなければ、どうぞ他の人と」って言いました。もちろん、そうならなかったですけどね。でも、とても良い方で、今はプリンストン大学のプロフェッサー(大学教授)になりました(笑)。
渡辺 ばれちゃいましたね(笑)。
ベアテ あぁ、楽しい。でも、私があなた達にこの話をしているのは、私のキャラクターからそういう考え方が生まれているから。本当にとても真面目だったから。
伊藤 はい。「女性の権利」にリンクする話なので、気にせず話を続けてください。
ベアテ そう? でも、「ホモセクシャル」のことを何も知らなかったって話については、あなたはそれほど興味がないでしょ? ある?
伊藤 お願いします(笑)。
ベアテ そうですか。その話は、日本で私みたいに育ったお友達がいて、私より一歳年上だったか、その人友達はアメリカに誰か家族がいて、その方も一緒にミルズカレッジへ通うことになって、後にカリフォルニア大学へ行きました。そのお友達がある時に「私、昨日知り合いになった人がいて、その人のお友達と一緒にダブルデートに行きましょう」って誘ってくれたんです。その男性はヨーロッパから来た人で、私は喜んで行きました。デートの日は、私が自動車の後部座席で、お友達が助手席に座って。私と隣になった男性から「どこから来たの?」って尋ねられたので、「日本から」と自己紹介をしました。それから、「どういう習いごとをしていましたか?」って聞かれて。私はダンスが好きだったから、ドイツ学校とアメリカ学校で随分ダンスを習いました。私の先生はとっても良い先生だったんです。私達に「バレエ」と、あの時は「モダンダンス」じゃなくて、何って言ったか…?
渡辺 フォークダンスですか?
ベアテ ドイツから来たダンスが流行ってたの。What did they call it ?(何て言うだったっけ?)。とにかく、モダンダンスみたいなのを教えていて。それで、その先生がスタジオのすぐ近くに自分のリビングルームとダイニングルームを作っていて、自分の新しい内装を見せたかったんでしょうね。ちょうど私がそのデートに行く前に見に行っていたんです。私がとっても面白かったのは、内装がみんなピンク色だったの(笑)。それでそのデートの時に「ね、変なテイストですよね? 全部ピンク色の物だけなんて」って話をしてしまったんです。そしたら、前の助手席に座っている私のお友達が私のことをこう見てね「ふーん」って怒っている顔で。私はとっさに「あ、こんな話を私がするのは、私がその先生を尊敬していないからって思われているのかな?」と思ったんです。彼女は、悪口を言うことは品が悪いことだから言わないのです。だから「でも私、その先生のことがすごく好きで、すごく尊敬している方なんですよ」ってその男性に言ったんです。そうしたら、自動車が止まって車から出た時にお友達が「あなたはなぜ、最初のデート中に“ホモセクシャル”のことを話すの!?」って。それで私が「ホモセクシュアルって何? 聞いたことないんだけど」って。
伊藤 その時に初めて知ったんですか?
ベアテ そう、お友達に化粧室に連れていかれて。私はそのことを教えてもらって、もうびっくりして(笑)。私は本当にそういうピュアな人みたいな考え方だったんです。それは“生い立ち”がそうだったから。私は、16か17歳まで聞いたことがなかった。面白いのは、私のお父さんとお母さんは、私が「ホモセクシャル」って言葉を知らないことを知っていました。でも、私に話す理由が別にないと思ったから何も言わなかったみたいです。
伊藤 それはまあ、そうでしょうね(笑)。
ベアテ ある時、日本からママとパパがサンフランシスコへ遊びに来ました。一緒に来た方もいて、その人はウィーン出身のバイオリニストで、日本で教えている方でした。その人が「ホモセクシャル」だったんです。アメリカに着いてから、その人の為にどこか面白い所に行こうとなって。サンフランシスコにはいろんなお店があったから。一つは『フィノキオ』っていう有名なキャバレーがあったんです。パパとママは私を一人でホテルに置いて行くのが嫌だったみたいで。だって、ミルズカレッジはちょっとサンフランシスコから離れていましたから、私も一緒にサンフランシスコのホテルにいたんです。『フィノキオ』というキャバレーは、「Transvestites(異性装嗜好)」の場所で、男性が女性になって、女性が男性になるキャバレーだったんです。私はすごく喜んで。あの人達はとっても上手だったんですよ。コスチュームも良かった。みんな男性だったんですけどね、私は構わなかった。男でも女でも。でも、私は聞いたことのない言葉だった。誰も私に「Transvestites」について教えてはくれなかった。
次の日ミルズカレッジに帰って、ランチをしている時に、一人のお友達が「週末は何してたの?」って聞くから、「とっても面白い所に行ったわ。『フィノキオ』っていうお店に行ったの」って答えたら、みんなが黙るの(笑)。何にも言わないで私を見る。それは有名な所だったんですね。でも、友達もその場所のことは知ってるけど、行ったことは多分ない。私は分からなかったから「何で行かないの?」って。後で、「ホモセクシャル」について教えてくれたお友達にまた聞きました。
こうやって、私は自分よりも年上の人達にいろいろなことを教えてもらったんです。ニューヨークへ行ってからも、「政治」のことや「デモクラシー」のことを上の人達が随分教えてくれました。特にそういう女性達は、割合にみんな進歩的でした。一人は南アフリカから来た人で。その人は南アフリカから逃げてきてたの。黒人じゃなく白人だったんだけど、「アパルトヘイトは認められない」と言って自分から逃げてきちゃった。自分の家族からも。お父さんとお母さんはドイツ系のイギリス人。彼女が私にいろんなことを話してくれました。「女性は権利がない!」とか特別にそういう話をするわけではないんです。とてもナチュアルに。例えば、『タイム誌』で働いているオフィスで「あなた見た? 見てご覧なさい。男性はみんなライターで、女性はみんなリサーチだけ。あなたはそれで良いと思う?」って私に聞くんです。私はもちろん「それは良くない」って答えます。そしたら「なぜ? 変でしょ」と言って。そしたら別のお友達が「この事務所で説明すると、会社は女性だからあまりお金を払いたくない。女性だから記事を書くのは許されない。ここには150から200人ほど働いてるけど、女性として本当に権力を持っている人がどれだけいると思う?」って聞いてきました。「分かりません」って答えると、「ここにはね、女性で権力をもっている人は二人だけ。後はみんな男性。だからこれは男性の世界なのよ」って。こういうことは、私が頼んだから教えてくれたことじゃなく、いろんなそういう…
伊藤 そういう出会いが積み重なってということですね。
ベアテ 私が特に運が良かったと思うのは、出会った人達が本当にインテリの女性達だったんです。とっても面白い人達で。世界中のことを良く知っていた人達。あの当時は、女性が自分一人で旅行するなんてことはしなかった。あなた達の時代のことは忘れて下さいね。今とは随分違うんです。今はこういう話をしても全然現実味がないでしょ? みんな自分で選んでどこかに行くことができるでしょ? でもその当時は全然そういう状況じゃなかった。
伊藤 アメリカでさえそうだったんですね。考えたことがなかったです。
ベアテ アメリカは民主主義国家であるのに、そういう国でも平等が実現できていないっていうことがよく分かりました。そして、戦後にもまだこういういろんな差別がありましたね。でも仕事のことはね、私には心配だったんです。どういう風にすればちゃんと仕事を…。だって、私はその時まで、リサーチが悪いとは言いたくないですよ。でもその前にやっていた仕事は、誰も日本語が分からないから、もちろん給料も良かったんです。
伊藤 ラジオの仕事のことですね。
ベアテ 私のこういう考え方というのは、いろいろな人達の影響から自然に来てるんです。あまり書籍じゃない。随分本も読みましたけど、そういう類の本は、フェミニストの本とかは読まなかった。
伊藤 実際に出会った人や経験からアイデンティティーが形成されたと。
ベアテ そう、全部そういう人達から。I am a people’s person。私は人が好きなんですね。だからいつでも人間に興味があります。本を読むのも好きですけど、人に聞くんです。私の頭に入っているいろんな知識は、他の人に聞いたことです。運が良かったのは、とっても支えてくれる人達に出会うことができたこと。例えば、私がミルズカレッジに行った時に、16歳で若かったでしょ? だから、ある音楽の先生は、私がパパとママから離ればなれで可哀相と思って、いろいろと気遣ってくれました。その先生はとても有名な作曲家で、あなた達は聞いた事あるかもしれませんが、フランスの「Darius Milhaud」という近代作曲家です。その方が作曲を教えてくれていて、キャンパス内に先生達の家があったんです。先生の子供が男の子一人だけいて「子供のベビーシッターをしてくれたら家にいてもいいですよ」って。お食事も全部奥さんが作るから。奥さんは女優でした。フランスの女優さん。そこで私はすごく良いフランス語を学びました。だから私のフランス語を聞くと、みんな私がフランス人だと思うみたいです。そこにいたからです。その奥さんは女優だったので、とても進歩的な人で、自分のキャリアとかそういうことを考えている人だった。ちゃんとキャリアもあって「ディザーズ」だったの。「ディザーズ」っていうのは、自分でモノローグをやる人のこと。自分の夫がそのモノローグの為に、音楽あるいは詩を書いて、その音楽が奥さんの伴奏になる。夫と奥さんのそういう協力作業はとても自然で。だから、日本にはそういう環境がないってことが改めてよく私分かりました。そういう気づきの一つひとつが、私にとても大きい印象を残していったんです。
伊藤 本当にベアテさんは出会った人たちから学んだんですね。
ベアテ その家には、その当時に一番有名だったいろんな音楽家が会いに来ていて。私は本当に恵まれてました。あなたも「ストラビンスキー」はご存知でしょう?
伊藤 はい。
ベアテ ストラビンスキーさんともそこで出会いました。ストラビンスキーは私のパパのこともよく知っていました。その家でランチをしていた時に、サインブックを渡したんです。そしたら、あの人は普通のサインじゃない、何か変わったサインをしたんです。それで私は「Mr. Stravinsky, I want your real signature.(ストラビンスキーさん、本当のサインをして下さい)」と言ったら、「Why?」といって今度はロシア語で書き始めたので、私は「No, I want you to sign it the way you sign when you sign for people, in a hall.(コンサートホールで観客にサインをあげる時と同じサインを下さい!)」って頼みました(笑)。最後にはちゃんと書いてくれましたけど。他にもね、「アンドレ・モロア」って聞いたことありますか? とても有名な小説家だったんですけど、アンドレ・モロアはパリ在住のフランス人で。その方の場合は、私にとても関心を持ってくれて、私のサインブックに「Beate」だけじゃなく「A mon collègue」って書いてくれました。「collègue」というのは「To My Colleague(同僚へ)」って意味で、当時その方は50代か60代だったけれど、私を同じ立場で接してくれたんです。そういうものは今でもちゃんと取ってあります。写真に撮りますか?(笑)
渡辺 しかしすごい資料ですよね、本当に。
ベアテ 私はそういうトップのインテリの方達に出会う機会に本当に恵まれていました。私の大学の専攻は仏文学だったので、文豪の人にも会いましたけど、ピアニスト、モデル、指揮者、音楽、文学、どういう方面においても本当にいろんな人達と。マダム・ミヨーの家族はとても広い範囲で交流を持っていた方だったからこそ、私はそういう人達と会うことできたのです。彼らにとって私は16や17歳で大人じゃなかったけれど、「日本から来た」ということでエキゾチックな存在でした。「日本」のお陰で、みんなが私に興味を持っていたんです。
他にも思い出しました。マダム・ミヨーがサンフランシスコに呼ばれて、コマーシャルシアター(営利目的劇場)でフランスの『Moliere』をやることになった時のこと。『Moliere』ってご存知ですか?
渡辺 『モリエール』ですね。
ベアテ そう、『モリエール』の劇をやることになって。そして、「誰かフランス語が上手な若い人知ってますか?」って聞かれたらしく、「ええ、ベアテって子がいるわ」って言ってくれたんです。私のフランス語が上手だったから。私はミルズカレッジで「フランスクラブ」を作っていて、そこでフランス語を話したり、いろんなことをやっていたの。マダム・ミヨーの生徒にもなって、ただで教えてもらっていたんですよ。一人か二人上手な人がいて、私もその一人だった。だから私をその劇団に推薦してくれたんです。そこで、私は本当の舞台に出演しました。18歳の時だったかしら。自分で舞台に立って演技をすることに、私はすごい喜びを覚えました。なぜなら、ママがいつも私に「自分は女優になりたかった。でも、自分の父がそれは許さなかった」って言っていたからです。昔のヨーロッパでは、「女優」は良い職業だと思われていなかった。何と言えばいいか、ちょっと「Prostitute(売春婦)」みたいな、あの当時はそういう感覚だったんです。でも、マダム・ミヨーにはもちろんそういう感覚は全然なくて。大学もそういう考えでないことを私は知っていましたから。フランスは割合に進歩的だったんですね。少なくてもオーストリアより。
伊藤 なるほど。ベアテさんが、どうしてあそこまで「女性の権利」を憲法に書こうと思ったのか、その根源が少し分かったような気がします。
PART2 GHQ憲法の草案の話。
伊藤 それでは次に、「GHQと憲法草案」についていろいろとお話しを聞かせて下さい。ベアテさんは、当時22歳だったわけですが、その若い女性が憲法草案に関わっていたことを口実に、日本国憲法の価値が失われてしまうことを懸念して、戦後ずっと口を閉ざされていたんですよね?
ベアテ そうです。1993年に、ケーディス大佐と一緒に来日しました。その時に初めて、いろんな日本人達と自由に「憲法」について話すことができました。
伊藤 なるほど。
ベアテ 日本人だけじゃなく、アメリカ人ともね。でも、日本ではそれが初めてだったんです。それがケーディス大佐がテレビ出演した最初です。その時に誰かが質問しました。「ケーディス大佐、“女性の権利”についてどうぞ何かお話し下さい」と。ケーディスさんは「ミセス・ゴードンの方がそれについては詳しいですから、あの方に聞いてみて下さい」と答えました。そのやりとりは、私の本に書いてありましたか?
伊藤 はい、書いてあったと思います。
ベアテ それから私の家へ来て、それで始まったんです。ケーディスさんの言うことは、私は常にしなければならないと思ってました。とても尊敬していましたから。泣くこともありましたけど。でも、あの人はとても優秀なブレインだったんです。そのことを日本の国民は知ってますか? ケーディス大佐が「Occupation(占領期)」の本当の中心人物だったってことを。
伊藤 いいえ。僕らが歴史の教科書で習うのは、最高司令官だった「マッカーサー将軍」のことくらいです。
ベアテ 中心はケーディス大佐です。
伊藤 先ほどのテレビ出演時にケーディス大佐が言っていたことですが、ベアテさんが女性の権利を含め「Human Rights(人権)」に関する条項を書いていた時に、そのやりとりの最中でベアテさんの上司の…ローストでしたか?
ベアテ いいえ、ルーストです。あの人の名前は「ルースト」なんです。日本の本では「ロースト」って書いてありますが、本当はそうじゃない。あの人はオランダから来たんですが「R・O・E・S・T」です。ドイツ語の「ウムラート」みたいなものです。「ウ」が「ウュ」になるみたいな。「Röe」で、ルースト。
伊藤 なるほど、そうだったんですね。そのルーストとケーディス大佐とのやりとりが本の中でも出てきますよね? それで、どの条文のやりとりの時だったか忘れてしまったんですが、ルーストがある条文を「Forever No Change(永遠に変えられない)」にしようと提案したところ、ケーディス大佐が「次の世代が自分たちで問題を解決する為の権利を、我々の世代が奪ってしまうことになる。だからそういう文言はない方がいい」と言ったそうですが、そのやりとりは覚えていますか?
ベアテ そのことは覚えていません。でも、多分そう言ったでしょうね。
伊藤 マッカーサーも同じようなことを言っていて、「永遠に変えられないというのは良くないから、それは次世代が考えればいい」と。
ベアテ それはそうでしょう。
伊藤 今日本で話題になっている「日本国憲法改正」の政治的議論とは別にして、GHQが憲法草案を作った後は、やはり日本人自身が考えて、日本の次世代が試行錯誤して時代にフィットするようするべきだと、ベアテさんを含めたGHQの人達はそう思っていたんでしょうか? 要するに、詳細については変えたければ変えればいいと。
ベアテ そうね。私は、そういうことについては考えていませんでした。
伊藤 考えていなかった?
ベアテ 本当にあまり時間がなかったんです。草案を作った後は、もうそれでfinished。最終的には、いろんな文字とかはいろいろと変わりましたでしょ? ジョーがそのことはまだ続けて。その後も、それが日本の議会に行ったでしょ? だから、私はもうフォローしていなかったですね。それが今後どうなるかについては。そんなに大幅な変化はできないということは分かっていましたから。
伊藤 それでは、日本の議会中に議論され、新しく追記された『生存権』(第25条)についてはご存知ですか?
ベアテ 「生存権」って何ですか?
伊藤 何て説明すればいいですかね…。「森戸辰男」という議員が、議会の中で「全ての国民に最低限度の生活を保障する」という権利を提案して、それが新しく追記されたんです。他にも、例えば『義務教育』の条項について、確かGHQの草案では小学校の「6年制」だったものが、今で言う中学校も入れて「9年制」を義務教育にしようという議論が起こったんです。そうやって、少しずつ憲法を修正したみたいなのですが、基本的にベアテさん達は草案作成後のフォローはしなかったってことですか?
ベアテ あまりしませんでした。「追補」のことですごく忙しくて、それもとても難しいものだったですから。
伊藤 そうですよね。
ベアテ 日本政府がちゃんとそのリストを作ってくれて、それを全部調べなければならなかった。いろんなことがあったんですよ。私達はそれを証明しなければならなかったので、とてもたくさんすることがあったんです。私が帰国するまでの間に。今からすれば、一生懸命草案を作った後の結果がどういうものであったのかに興味を持つと思うでしょうけど。でも、私はとても楽観的な人だったから。もうこれで大体良いんじゃないかと思ったんです。だから、アメリカへ帰ってから後は、もう本当に・・
伊藤 仕事や子育て生活でしたよね?
ベアテ そう、違う生活がありました。憲法草案を作るというのは、わずか一週間ちょっとのことだったんです。それは夢みたいな特別な時間だった。私にとっては、生きている間で一番ハイテンションな時間でした。
伊藤 なるほど。
ベアテ その一週間というのは、そうね……。「民主主義」の根を他の国に、少し前までは敵だった国に対して、全然敵とは思わないで、本当に心からこうみんなが一生懸命に作成しました。私だけじゃないですよ。みんなそうだったんです。20人くらい。まぁ、2、3人はもちろんそうじゃなかったかもしれないけど。大体そういう雰囲気だったんです。
伊藤 これはすごく質問の仕方が難しいのですけれど…。いいですか?
ベアテ いいですよ。
伊藤 僕らの世代は、日本国憲法が「アメリカから押しつけられた」と日本の政治家が言っているのを聞いても、まるで実感はないですし、今まで60年間以上も存在していたというその事実の方が大事なことなので、もしそうであっても、それならそれでいいのではないかとも思っているんです。とはいえ、僕が逆に知りたいと思ったことは、例えばもしも、あの当時ベアテさんみたいな人がいなかったとして、もしもいわゆる「戦勝国」的な視点で憲法を作ったとしたら…。「戦勝国」って分かりますか?
ベアテ はい、「the victor」のことですね。
伊藤 そうです。簡単に言えば、戦勝国として日本をアメリカの都合のいいように憲法を作ろうと「もし」していた場合…
ベアテ もしも…
伊藤 どこが具体的に違う憲法になっていたと思いますか? ベアテさんの本にも、戦勝国が都合よく作ったのではなく、ピュアなマインドを持っていたからこういう憲法になったと書いてありました。僕もいろいろ調べる中で、基本的には今はそう思っています。でもそうじゃない人達が作ると、どうなっていたということなのでしょうか? 例えば、条文で言えば具体的にどの箇所が違っていた可能性があると思いますか?
ベアテ 例えば、他の連合国の人達は「天皇」については辞めた方がいいと思っていましたね。それが一つ。もう一つは、あの当時には私が書いた「女性の権利」のような条文は他の国にはそんなになかったんです。アメリカ人の男性もそれほど進歩的ではなかった。だから、あの当時は考えてなかったけど、私じゃなくてもしも男性がそれを書いていれば、全然こういう憲法にならなかったでしょうね。
伊藤 確かにそうですね。
ベアテ 他の女性で同じようなものを書いていたとしたら、多分私みたいに世界中を見てた人だったと思いますよ。私は若かったけれども、アジア、ヨーロッパ、いろんな国へ行ってたでしょ? コスモポリタンだったんです、私は。だから、もしそういう人でなければ、あまり強くその権利について書いてなかったでしょうね。多分、その他の条文についても。例えば『Civil Rights(市民権)』。アメリカ人ですごい本を書いた人知ってる? ええと、ジョン・ダワー教授の『Embracing Defeat(敗北を抱きしめて)』。あの人が言った通り、「Civil Rights」の章は大体がその当時の一番進歩的な憲法だった。きっと今もまだそうでしょう。
伊藤 はい。
ベアテ もちろん、そういう人達は当時はそんなにいませんでした。だから、ちょうどあの「Government Section」の20人の間にそういう同じ意見を持った人達が随分いたからこそ、こういう憲法になった。他の人達が書けば、いろいろと違うものになる。おそらく「平和条項」の箇所もあれではなかったでしょうね。でも、私は映画監督のジャン・ユンカーマンさんとは同じ考えではないです。昨日、ジャン・ユンカーマン監督が言っていたのは、平和条項は総理大臣だった幣原喜重郎さんが考案したという説。そういう噂もあるんです。でも、私はそうは思わない。幣原さんみたいな人は、どうしてもそういう考え方はできない。軍閥からはそういう発想は出て来ない。だから、きっと随分違ったものになっていたでしょう。でも、あのマッカーサーが…。いえ、あなたの質問を聞きましょう。
伊藤 ありがとうございます。今日は『9条』に焦点をあてるつもりはあまりないのですが、ユンカーマン監督が言うように、9条を誰が考案したのかについてはいろいろな説がありますよね? 実際は、誰があれを考えたのだと思っていますか?
ベアテ 私も本当に知りません。ケーディスさんにも聞きました。ケーディスさんは、多分マッカーサーが書いたか、もしくはハッシーがそれを書いたかもしれないと。何かそのセンテンスの文章の感じが、ちょっとハッシーらしいんですって。しかし、それを手で書いたのはホイットニーの筆跡か。マッカーサーとホイットニーの筆跡は…
伊藤 すごく似ていたっていう…
ベアテ そう、筆跡が随分似ていたんですって。だから本当に分からないんです。私は、ずっとケーディスさんが書いたものだと思ってたんです。でも「そうじゃない」と彼が言いました。出てきたものを「直しただけ」と言いました。「Defense(防衛)」の文字のことです。ケーディスさんが私に直接言いました。「自国がDefenseするのもいけないと書いてあった。それを自分が削除した」と。だから誰にも分からない。戦争放棄の思想がマッカーサーの頭の中にあったのか。マッカーサーは、本当は進歩的な人ではなかったと思います。あの当時、私達みんなが思っていたのは、おそらく彼は次期アメリカ大統領になりたいと思っているってこと。GHQにいた人達はみんなそう思っていたの。あの人は、歴史の為にも、そして大統領になる為にも「日本にとって良い憲法を残せれば、アメリカ国民も選挙の時に自分に投票するだろう」と考えていると私達は思っていたんです。
伊藤 なるほど。
ベアテ マッカーサーはあの当時は何も言わなかったけど、大体のアメリカ人は陸軍出身の人を大統領にするのが嫌いなんです。アイゼンハワーは大統領になりましたが、大統領になる前に陸軍を辞めて、コロンビア大学の学長になってるんですよ。
伊藤 そうだったんですか!
ベアテ それで、それを二年か何かやったんですよね。そうしたらみんなが忘れるでしょう? 陸軍のことを。そういう考え方。アイゼンハワーは一度「民間人」になった。だからみんながアイゼンハワーの為に投票をしました。そういうこともマッカーサーの頭の中には入っていたかもしれません。
伊藤 そんな考え方もあるんですね。
ベアテ でもそれが本当にそうであったのか、そうではなかったのかということは誰にも言えない。マッカーサーはもう亡くなりましたから。いろんな人達がいろんなことを言っているでしょ? でも私には考えられないんです。幣原さんみたいな方が…
伊藤 そのような「戦争放棄」への思想があるなんてことが…
ベアテ そうそう。松本烝治(元国務大臣)さんだって憲法を書いた時には、全然民主的なことは書けなかった。
伊藤 そうみたいですね。
ベアテ 幣原さんは松本さんよりも良かったかもしれませんけど。
伊藤 比べたらということですね?
ベアテ そう、比べたら。でも、私にはどうしても思えない。だって、私の幼い頃の思い出は、戦前の日本は本当に軍閥の国でした。ずっとそうだった。私は幣原さんのことはあまり知らないんですよ。でも、いろいろと聞きました。そういう話もちょっと出てきたのかもしれません。 幣原さんとマッカーサーは、何かそのことについて少し話したのかもしれません。I don’t know. でも、あなた達はどう思うんですか? 幣原さんみたいな人達のことを。良い人だったのかもしれません。私は幣原さんのことは大分忘れてしまいました。近衛文麿さんのことならまだ私は覚えているけれど。でも、どうしても、幣原さんがそういうアイディアがあったとは思えないんです。
伊藤 実際に彼らとの面識があるベアテさんの実感がお聞きできただけでも良かったです。そんなに「いろいろな説」があったということさえも、僕らは学校では習いませんので。
ところで、この資料見えますか? 英語で「S・W・N・C・C」っていう綴りの「スウィンク」っていう組織です。
ベアテ ええ、知っています。
伊藤 資料に『SWNCC228』というのがありますが、そもそもこれが何かが分からなくて。教えてもらえますか?
ベアテ スウィンク(SWNCC)はね、「State, War, Navy」。 Sは「State Department(国務)」。 Wは「War Department(陸軍)」。Nは「Navy Department(海軍)」です。その後は何でしたっけ?
伊藤 「CC」と続いています。
ベアテ ああ、何かの「Committee」みたいなものかもしれません。
伊藤 分かりました。これはベアテさん達の民政局の資料の中でも、重要な資料として存在していたんですか?
ベアテ ケーディスさんが関係ある人達には見せていました。だって、SWNCCはアメリカの政府だったから。
伊藤 SWNCCの資料というのは、アメリカ政府からの「ディレクション」ということになるのですか?
ベアテ そう、ディレクションです。
伊藤 なるほど。これは何です?
ベアテ この人達はね、SWNCCの人達というのは、もちろんマッカーサーよりも上に位置します。ワシントンにいますから。でも、そこからいろいろなディレクションがあったんです。私はよく覚えていませんけど。手元には彼らが何を言ってたかっていう資料がありますか?
伊藤 いえ、今はないです。ただ、本の中にGHQ以外のいろいろな組織が登場してきて。『SWNCC』の他にも『JCS』とかですね。
ベアテ Excuse me?
伊藤 「J・C・S」です。日本語で言うと「統合参謀本部」ですかね。これも多分、アメリカに本部があったものだとは思うんですが…
ベアテ 『Far Eastern Commission』ですか?
伊藤 いえ、違いますね。
ベアテ ちょっと待ってて下さい。I’ll ask my husband.(主人に聞いてくるわね)。
(中断)
ベアテ さっきの答えが分かりました。私が言った通り、主人は忘れない。SWNCCの「CC」は、「Coordinating Committee(調整委員会)」でした。そしてJCSは「Joint Chiefs of Staff」。意味は、このSWNCCに勤めていた一番上の人達は、みんなが「Chiefs of Staff」なんです。その一番上の人達が一緒にやる時が「Joint」で、JCSです。
伊藤 なるほど、なるほど。
ベアテ 分かりましたね?
伊藤 はい、分かりました。僕が混乱するのは、日本で憲法の話になると「押しつけ」かそうでないかとなって、結局その話に集約されてしまうことが多いことです。
ベアテ ええ、知ってますよ。
伊藤 これは僕の勝手な推測ですが、なぜ「押しつけ憲法」という議論になるかと言ったら、やっぱり『9条』の存在があるからで、要はさっきもお聞きしたように、もしもベアテさん達みたいな人じゃない人達が憲法を作っていたとしたら、戦勝国としてアメリカの都合の良いように作ろうとしていた場合も、同じように『9条』が入っていたんじゃないかと思っている人が多いと思うんです。言っている意味は分かりますか?
ベアテ ええ、もちろん。
伊藤 つまり、戦勝国として「軍事力を持たせない」という意図と、そもそも「戦争が二度と起きて欲しくない」と一般の日本人の平和への想いは、お互いにルーツは違うけれども、憲法として出来あがった時には結局同じような条文として表現される。勝った国が負けた国に対して「軍事力を持つな」と言うことと、僕ら日本人が「やっぱり戦争は嫌だ」と思うことの違い…。その棲み分けがうまくできなくて、僕はいつも混乱してしまうんです。
ベアテ ええと、その場合はそうですね…。どういう風になるか…。他の人達はどう思うか…。
伊藤 まあ、難しい質問ですよね。
ベアテ 難しいですよ、これはとても。みんなが私に言うのは、多分私達が草案を作っていなければ、他の人達が憲法を書いていたなら、あんまり良い憲法にはなっていなかったでしょうということ。あなたが言う通り、普通は戦勝国が自分の為に利用したいと思うでしょう。しかしあの時はちょうど、マッカーサーと国はそういう考えではなかった頃です。少なくとも、私達が憲法を作った時には、そういう考え方はあまりなかった。けれど、それから数ヶ月後に「Cold War(冷戦)」が始まった時には変わったと思います。アメリカでも。だから、もう少し後に憲法を作っていたら、多分もっと違うものになっていたでしょうね。アメリカの為の、戦勝国の為のものに。
伊藤 もしも「時期」が違っていたらということですね。
ベアテ 私はそう思います。確かにそうでしょう。でもあの憲法草案時は、それがまだだったの。これは全部ロシアについてのことですよ。
伊藤 はい、分かってます。
ベアテ Cold Warはすぐに始まったじゃない? 始まったのは、トルーマン大統領のあの有名なスピーチをした時。
伊藤 はい、そうでしたね。
ベアテ 確かすぐ後だったと思います。その時期を正確に知りたいですか? 主人が知っているかもしれない。
伊藤 いえ、大丈夫です。
ベアテ そうね。調べることできるものね。ところで、土井たか子先生が私に言ったことは興味がありますか?
伊藤 もちろん聞きたいです。
ベアテ 聞きたい? 私が土井先生と一緒にイベントに出演した時のことです。私は「土井先生、あなたと同じイベントに出るのは私はとっても恥ずかしいです。だって、あなたは憲法の研究者で、Professorです。私は本当に法律の素人です。本当に素人なんです」って言いました。
伊藤 確かにそうですけど、そこまで恥ずかしがらなくても(笑)。
ベアテ 「私は弁護士じゃないですから」とも言ったんです。そうしたら土井先生が言ったのは「あなたが弁護士じゃなかったから、こういう“女性の権利”について書くことができたんだと思います。もし弁護士だったら、たった9日間でこういうものは書けない。“この意味はこうで”とか、“この権利はどうでしょうかね”とか言って、とても大騒ぎになって書けなかったと思う。あなたの条文を読むと、それが心から出てきたっていうことが分かります。あなたが心から書いたものだから、弁護士みたいな他の人には書けなかった」と言ってくれました。土井先生の指摘は、本当にそうだと思ってます。私は本当に心からあの権利を望んでいました。だから、土井さんの話を聞いた時、私は思わず泣いてしまいました。でも、日本人だったら、偉い人の前で泣くのは駄目なことでしょう?
伊藤 そうですね。
ベアテ 私は「そういう気持ち」も全部日本から教わったんですよ。日本の習慣では、子供を産む時でさえ女性が「ああ〜ッ」とscreamしちゃいけなかったんです。でも、最初にアメリカで子供を産んだ時、私はscreamしちゃいました。「scream」って分かりますか?
伊藤 はい。叫んじゃったんですね(笑)。
ベアテ 私の夫はベッドの傍にいて、私が「あら、今screamしてしまったでしょ?」って聞いたら、夫が「構わないですよ。ここにはいろんな女性がいますが、みんなscreamしてますから」って。でも、私は「それはみっともないことだと思います」って言ったの。その時、ちょうどお医者さんが入って来て、夫が「ベアテは、今とってもナーバスになっています。それはscreamしたからです」と伝えると、お医者さんも「私はあなたの為にメダルを持って来てたんだけど、screamしちゃったんならあなたにメダルはあげられないね」って。
伊藤 そう言ったんですか(笑)。
ベアテ そう。そう言って笑ってるの。夫も笑っているんですよ。私は痛くてしょうがないのに(笑)。だから、私は「なぜ笑ってるんです?」って言ったら、お医者さんが「泣いた方いいですか?」って。まあ、やりとりはそれで終わりで、その後出産するんだけど、とにかく当時の私は本当に日本人みたいな考え方だったんです。
だから「女性の権利」については、本当に心から望んでいました。多分、他のアメリカ人だったら同じ気持ちにはならなかったでしょう。特に男性はね。アメリカ人も、当時の男性はそんなに進歩的ではなかったですからね。それは土井先生が言う通りです。でも、その考えがそんなに進歩的なことだとは私は思っていなかった。あたり前のことだと思っていましたから。確かに、他の国の憲法にもそういう条文が全部揃っているのはなかったけど、ある国の憲法にはある権利が書いてあって、別の国の権利条項には違うものが入っていた。それを、全て私は集めた。私の考えで、いろんな国から一番良いと思う権利をみんな「one constitution」に入れたんです。だから、日本のある専門家が言っていたのは、「GHQが全世界の叡智を調べて、それを日本の憲法に集約したみたいだ」って。アメリカの憲法とも違う。そう、ジェームス三木さんがそれを言っていました。「歴史のwisdom(知恵)がそこに入っている。だから、世界中が一緒に書いたみたいだ」って。私は本当にその通りだと思います。憲法を作った私達20人くらいの中には、1人か2人は法律の専門家だったんですけど、大体はそうじゃない普通の人達だった。先生とか役人とか、そういう人達。4人は大学の教授だった。他にも、普通のビジネスマンみたいな人が数人いて。社会のいろんな立場から来た人達が集まっていたんです。
伊藤 まさに、だからこそ、法律の専門家とは異なる柔軟な発想で、他国の憲法を集めてきては「これは良い条文」って素直に選択できたわけですよね?
ベアテ そう。だってね、誰も私達が憲法を作るなんて考えてなかったんですよ。全然考えていなかった。当初、マッカーサーは「日本の政府が書きなさい」って命令していたんですもの。でも、日本政府の案はあまりにも以前と変わらない憲法草案だったから。本当に明治の頃と同じ。ちょっとだけ違う漢字を使ったり、ちょっとだけ何か違う表現だったり。でも、何にも変わってなかったんです。『ポツダム宣言』には、民主的な憲法を「その国」が書かなければならないって書いてありました。それを命令していたの、マッカーサーに。でも、提案されてきたものは全く民主的な案じゃなかった。だから、憲法草案を作るとは思ってなかったところに、あの週末に突然決まったんです。金曜日か土曜日に。私達は月曜日に知りました。ケーディスさんも知らなかった。いや、彼はおそらく日曜日には知っていたのかもしれない。ホイットニーは、金曜日か土曜日には知っていたと思う。だって、マッカーサーはとてもホイットニーのことを…
伊藤 信頼していた?
ベアテ そう。面白いのはね、マッカーサーの事務所はすぐ近くだったんです。私達のGovernment Sectionと。
伊藤 同じフロアじゃなかったんですか?
ベアテ 同じフロアどころか、隣のオフィスだった。ケーディスさんは、マッカーサーと二回だけ話をしたことがあったそうです。二回だけ。後は、全部ホイットニーを通してマッカーサーの耳に情報が入っていたみたい。
伊藤 そうなんですか!
ベアテ そう、たった二回だけ。だから、実際はケーディスさんからいろいろな考えが出ていた。彼の頭の中から。Government Sectionのことだけじゃなくて、他のセクションのことも。私から見ると、ケーディスさんが指導者だった。
伊藤 しかし、マッカーサーと直接話したのはたった二回だけとは驚きですね。
ベアテ 二回だけ。マッカーサーは私達にとっては「天皇陛下」みたいな存在だったんです。もちろん、ホイットニーとかウィロビーとかそういう人達は話をしていたみたいだけど。毎日、報告に行くものだと思っていたから、私もびっくりしましたよ。
伊藤 そりゃそうですよね。
ベアテ 実際は、全部ホイットニーを通して。でも、ホイットニーはとてもケーディスさんのことを好きだったの。彼が優れたブレインだっていうことを分かっていたんでしょうね。
伊藤 その話を聞いた後に聞くのも何ですけど、ベアテさんがマッカーサーと直接話すなんてことは…
ベアテ 私はカクテルパーティで一回会ったことがあります。
伊藤 「会った」という程度なんですか?
ベアテ ええ。「会った」ってそれだけ。あの人は女性嫌いだったんです。特に事務所で勤めている人に対しては。彼の事務所には、全然女性はいなかった。男性だけです。
伊藤 じゃあ、隣のオフィスという距離なのに、ベアテさん達が会ったのはそのカクテルパーティのわずか一回というような関係しかなかったんですね。
ベアテ いつだったか、ちょうど私がエレベーターに乗ろうとしている時に、マッカーサーが食事から帰って来て、ロビーで見ました。でも、私は隠れました。会いたくなかったんです。怖かったですね、とっても。マッカーサーは怖かった。彼は、自分の奥さんのことは愛していたと思いますけど、女性に関して何かトラブルがあったみたいです、オーストラリアで。ある将軍が、自分のジープの女性ドライバーと情事があって、スキャンダルがあったんですよ。その後、マッカーサーは自分の事務所に女性は配属しないようにって命令したの。あっははは、いろんな面白い話を思い出しました(笑)。
伊藤 すごくリアルな話です。しかし、ケーディスさんでもたった二回なんて…。それが本当にびっくりです。
ベアテ 私もびっくりした。Oh, is that possible? General did not talk to anybody.
伊藤 そんな話は資料を読んでいてもなかなか出てこないです。
ベアテ 出てこないでしょうね。私も二年前までは知らなかったですから。あ、いや、四年前ですね。ケーディスさんが亡くなる前に会ったんですよ。ニューヨークにいた時に、時々は会っていました。ケーディスさんが帰って来た後、時々お食事に行くとかそういうことがありました。
伊藤 そうだったんですか。
ベアテ あの人は弁護士で、大きい弁護士会社のパートナーだったんです。だから、会う機会がありました。まあ、頻繁にじゃないですけど。あの人は、私のことも、私の夫のことも好きだったんです。うん、好きだったの(笑)。ケーディスさんを正式にインタビューしたこともありました。コロンビア大学が「日本の占領期」についてファイルを作成しようとしていて、その時に大学側が私に頼んで、私はいろいろな人達をインタビューしたんです。
伊藤 GHQの憲法草案に対して、日本側が「この“女性の権利”の条文は進歩的すぎる」と反対した時に、それに反論して認めさせたのが、確かケーディスさんでしたよね?
ベアテ ケーディスさんは、私の「日本女性の権利」に対する想いには反対しなかった。ただ、詳細に書くことは「憲法には合わない」と思っていて、その他の社会福祉関連の権利は「民法に書く方が良い」という考えでした。私も随分そのことについて考えてみました。あの人はアメリカ憲法のことについて詳しかった。他の『Steering Committee(舵取り委員会)』の人もみんなアメリカ憲法をよく知っていたんです。政府に勤めていた人達だったから。一人は「Governor of Puerto Rico(プエルトリコ政府)」のラウルさん。そしてもう一人はハッシーで、似たような立場。あの人達はいつでも「アメリカ憲法こそが一番良い」と思っていた。あるでしょ? ずっと以前からこうだったんです。ヨーロッパの憲法なんか読んでいなかった。アメリカ憲法には、そういう社会福祉関連の条文がないんです。だから、その三人は「それは憲法には合わない」って。「それは憲法という法律の趣旨とは違うものだ」って。憲法というのは何か…
伊藤 「Principle(信念)」 みたいなものってことですか?
ベアテ そう。だから「それはいらない」って。憲法に入らないとしても、ケーディスの立場からすればそんなに問題じゃなかった。民法に入れればいいと思っていたから。でも、私は「民法を書く人達は、絶対そういう考えを、社会福祉のことを書かないと思う」って言ったんです。なぜなら、「日本の官僚はとっても封建的な人達ですから」って。それを私は経験として知っていました。
日本に暮らしていた時、私はパパとママの通訳をしていたんです。暮らしていると、警察とかいろいろ接する機会があるでしょ? 時々、日本の官僚に会わなければならないことがあった。私は通訳として話していたから、幼いながらも「こういう人達はイマジネーション(想像力)がない」と思っていました。とても保守的だということも。そういう人達は、こういう権利のことは自分からは書かない。もちろん、憲法に書いてありさえすれば、それが命令だから書く。でも、憲法に入っていなければきっと書かない。そのことについて、私は本当に随分と考えました。ケーディスさんが亡くなった後もずっと。彼と他の二人は、社会的な条文を具体的に憲法に書くことを「本当にみっともない」と思っていたんです。けれど、ケーディスさんはそういう社会福祉の考え方については反対ではなかった。もしかしたら、嘘をついていたかもしれません。私には本心は分からない。当時、彼が私に言ったことは、「心配しないで。私はまだ日本に長くいますから、その間民法を注意深くチェックしますよ」と。本心だったかどうかは分かりません。
私が一つ思うのは、私の娘が弁護士になりたかった時にケーディスさんに電話して、「あなたの会社に入れるでしょうか?」って聞いた時のこと。そしたら彼は「娘さんはとても頭が良いから入れますよ。でも、これだけは伝えて下さい。私がこの弁護士会社にいる間は、女性はトップになれません」って言いました。あの会社には、パートナーが10人ぐらいいて、その人達が一番儲けて、決める人達。彼がそこにいる間は、女性はそういう立場にはなれないって言ったんです。その考え方は、もちろんちょっとねえ…
伊藤 彼の本心がそこに表れていたかもしれないってことですね?
ベアテ 私の娘のミキちゃんにそれを言ったら、「それじゃあ、私はそこには行かないわ」って。もっと違う別の良い会社に入りました。ミキちゃんは今52才ですから、今からもう30年前の話ね。とにかく、ケーディスさんはあの時にそう言いました。確かに、ケーディスさんが辞めた後は、すぐに一人の女性がトップパートナーになりました。だからそこに関してだけは、私は彼の考えに疑いがあります。だって、そういう考えであれば、社会福祉のことに関してもね…
伊藤 なるほど、そうですね。
ベアテ 今となっては分かりません。あの人の本心は。確かだったことは「あなたの書いたものに私は反対していません。民法には入りますよ」ということだけ。本当に土井先生が言った通りですね。弁護士の考え方と、私のような普通の人、素人とは考え方が違うんです。
PART3 世界の過去と未来と憲法9条。
伊藤 今日本では、「改憲」か「護憲」かの議論が盛んにされています。政治的な文脈で、改憲派か護憲派というと難しい議論になってしまうので、そうではなくて、もしも今ベアテさんが日本にいたとして、例えば日本人だとしたら、憲法を変えたいと思いますか? というのは、先ほど話していたように、ケーディスさんとのやりとりの中で、憲法に入れられなかった内容もいくつかありますよね? それをやっぱり入れたいと思いますか?
ベアテ 私は「Amendment(修正)」することは危ないなと感じています。それはちょうど「パンドラの箱」みたいなものだと思っていましたから。その「パンドラの箱」を開ければ、何が出てくるでしょうか? 例えば、「第何条かを変えるために改正しましょう」と言った時、本当にそれだけを変えるのだったら良いかもしれませんが、私はそうなる気がしない。「パンドラの箱」って分かりますか?
伊藤 はい、分かります。
ベアテ それを開ければ、何が出てくるか分からない。
伊藤 「憲法を変える」ということと「パンドラの箱を開ける」ことは同じということでしょうか?
ベアテ もちろん。だって、もし一つ変えたなら、また次にやりますよ。またやれる。私が思うのは、「パンドラの箱」を開けなくても、いろんな日本人が今望んでいる変更に関しては「民法」に入れればいいと(笑)。
伊藤 なるほど(笑)。
ベアテ 憲法はノータッチにしてね。民法に入れたらどうですか? 議会がいつでもいろんな法律を作ることができますでしょ?
伊藤 ベアテさんが今おっしゃった意味はすごくよく分かります。それについて2つ質問があります。ベアテさんがそう思う理由としては、日本の戦時中、いわゆる軍閥政府の頃を「日本の政治家」のイメージとして持っているからなのか、もしくは、憲法というものはそもそも変えるべきでないということなのか。つまり、例えばアメリカの憲法に対しても、同じようにずっと変えずにいるべきだと思っているのでしょうか?
ベアテ いいえ、そうじゃないんです。私は、60年前の戦時中の状態を、軍閥の性質を考えれば、人はそんなに早く変わらないのではないかということです。60年というのは「短い」時間です。封建的な国から、本当にモダンな進歩的な国になるのには、私は時間がかかると思うのです。それは私の考えです。例えば、ある人はこんなことを言ったんです。若い女の子がある男の子と結婚したい。でも、ちょっといろいろな欠点がある。でもその女の子が言うには、「私と結婚すれば、この人を変えることができる。私がこんなことをすれば、あの人の性格は変えられますよ」って。私にはそれは言えない。18歳くらいになると、もう大体人格が形成されている。私の夫は、結婚当時と比べても全然変わらないですよ(笑)。私も変わっていない。そういう考え方なんです。だから、60年という時間は私の心境としては全然長い時間じゃない。だから怖いんです、「パンドラの箱」が。
伊藤 なるほど、おっしゃっている意味が分かりました。
ベアテ 本当に怖い。ところで、あなたは昨日のイベントに登壇されていた鈴木邦男さんとはお友達なんですか?
伊藤 いえ、今回初めてお会いしたばかりです。
ベアテ 私は今回のイベントに行くことをとても心配してました。渡辺さんはあなたにそう言っていましたか?
伊藤 はい、聞きました。
ベアテ 本当は行きたくなかったんです。渡辺さんが鈴木さんに関する資料を送ってくれました。でも、その資料は数日前に届いたんです。それ以前に、私は鈴木さんのことを全く聞いたことがなかった。その資料には、三島由紀夫さんの写真と、ハラキリの写真が入ってました。ハラキリじゃないですね(笑)。そういう切腹のことが書いてあって、私はそういう人達と同じ部屋にはいたくないと思いました。だから、私にとってそれはとても大きいショックだったんです。今でもよく分かりません。鈴木さんが何を言っているのか。私からは信じられない。何を言っても…。あの人は自分のことを「Ultra-nationalist」って言うんです。日本語ではそれを何と言いますか?
伊藤 「新右翼」ですかね。
ベアテ 「自分は右翼ですけど進歩的です」って。その意味が私には分かりません。そういう話は、私は信じていないのです。私は、こういうナショナリスト、ナチスみたいな人達のいろんな本を読んでいますから。あの人達のしゃべることの中には嘘がたくさん入っています。だから、日本の軍閥の人達はそんなに変わっていません。ナチスとは本当は比べたくない。あなたに言っておきたいのは、日本とナチスは私の考えでは大きく違うんです。違うというのは、ナチスが登場する前のドイツは、とっても進歩的な国だったんです。
伊藤 憲法を比較してみるとっていう意味ですか?
ベアテ 『ワイマール憲法』は確かに良い憲法でしたけど、ドイツの「文化」というものは、割合に全ヨーロッパのみんなが良いと思っていたのです。例えば、ゲーテとかハイネとか、そういう有名な詩を書く人だったり、音楽家のベートーベンみたいな人達がドイツから生まれていましたから。だから、そういう国の国民は教育水準がとても高かったんです。そういう人達が、今度はナチスになった。一方、日本の国の場合はですね、あんまりそういう教育はなかったんです。例えば、天皇陛下や上層部の人が何か下に命令する仕組みの中でやったんですよ。そうでしょ? だから、国民のせいではなかったと私は思うんです。けれど、ドイツ人は理解していました。だから「罪」がある。言っている意味は分かりますか?
伊藤 はい、分かります。
ベアテ だから、私はドイツへ行ったことはないです。行きたくない。そういう人達と会いたくない。まあ、そういうことです。今は少し私の態度も違いますが。
伊藤 でも、60年という時間はそれほど長いものではない。「パンドラの箱」を開けるようで怖いとベアテさんは思ってるんですよね?
ベアテ Absolutely, absolutely。でも、日本は本当にナチスとは違う。確かに、日本がいろんなことを他国でやったことも私は知っていますよ。南京、中国でも随分大変なことをやりました。でも、他の国の人達もいろいろなことをやりましたね。だから、ナチスは特別です。あのような文化を生んだ人達が、そういうひどいことをやったということが私には…。あなたはナチスの歴史については知っていますか?
伊藤 詳しくは知りません。もちろん「ユダヤ人虐殺」のことくらいは知っていますが…
ベアテ ユダヤ人だけじゃないんですよ。ユダヤ人、カトリック、占領した場所で非常にたくさんの人を殺しました。決してユダヤ人だけじゃない。それは間違いない。ユダヤ人は確かに一番多かったけど、他の人に対しても大変だった。でも、今のドイツはユダヤ人の為に何だかとっても良いことをやってるみたいですね(笑)。ホロコーストのミュージアムも造ったんですよね? すごいんですって、ベルリンで。多分、今の若い人達はすごく罪を分かっている。でも、そのお父さんたちとお母さん達は、多分まだ分からない。他の人達に対しては、良い感情がない。私はオーストリアにも行きません。オーストリアにもすごくたくさんのナチスが今でもいますから。
伊藤 そうなんですか!?
ベアテ それが大きな問題です。今のドイツの若い人にはあまり会ってないけど、ここでね、一人か二人に会っただけです。彼らはとても良い人達でした(笑)。でも、そういう人達はたくさんいるのでしょうか? 今行っても、以前と同じ考え方の人達がいるから、私は行きたくないんです。どうせ旅行で行くなら、楽しい所に行きたい(笑)。私は本当にびっくりしたんです。ナチスがまだずっと存続しているということにね。ハンガリーも同じですって。誰かがそういう話を私にしました。「あなたはなぜオーストリア行かないの?」って聞くから、私は「ナチスがいるから」って答えたら、「ナチスはどこへ行ってもいるじゃないか」ってその人が言うんです。それは本当です。フランスにもいます。でも少ないです。
ちょうど3週間前に、私の娘の主人が「子供にオーストリアのウィーンを見せたい」と言いました。私がそこで生まれ、私のお祖父さんやみんなあそこで死んだからね。「一緒に行きませんか?」って私に頼むの。でも、私は「ウィーンには行かない」って答えました。「ナチスがいるから、私はナチスには会いたくない」って。「もうずっと前のことじゃないですか?」って言われましたけど、私にとっては「ずっと前のことじゃないですよ」って。それで、彼らだけで行ったんです。そしてウィーンからE-mailが届きました。お墓参りに行ったようなんですけど、そこに事務所がありまして、日本も同じですか? 私のお祖父さんの名前は「エイブラハム・ホルンシュタイン」。その名前を言ったら、その事務所の人が「この場所にはユダヤ人のお墓はありません」って言ったみたいなんです。びっくりしました。だって、私の従兄弟が4年前に行った時には、お墓がちゃんとあったんです。だから「ちゃんと名前を書かなかったんじゃない? だから分からなかったんじゃないでしょうか?」って言ったの。でも、彼らは「ここにはユダヤ人の墓がない」って言った。でも、事務所から出てちょっと見たらね、もう一つ小さな事務所があったの。1ブロックぐらい離れて。そこは同じ「cemetery」で。「cemetery」って日本語で何て言うのかしら?
伊藤 「共同墓地」ですかね。
ベアテ そう。その墓地の中を歩いてみたら、そこには大きく「Jewish committee」って書いてあるんです。そこに入って、「私はエイブラハム・ホルンシュタインを探しています」って聞きました。そしたら、「ちょっと待って下さい。全てコンピュータに入力されていますから」と。しかし、私のお祖父さんのお墓の情報がコンピュータで出てこない。確かにユダヤ人のお墓はそこにあるんです。でも、私の従兄弟が行ってからこの数年の間に何かが起こった。だって、私の孫とお父さんが他のユダヤ人のお墓がある場所へ行ったら、全部バラバラになっていて、石がちゃんと立ってないんですよ。だから、きっと何かがあったんでしょうね。私は調べたいんです。どこに今、私のお祖父さんのお墓があるのか。ユダヤ人のcommitteeも知らないみたいだから。コンピュータには随分といろんな名前が出てきた…。
考えてみて下さい。アメリカから誰かが来る。事務所であそこのお墓の責任者が「ここにはユダヤ人の墓はない」と言う。そんなことを言うのは、どういう人達だと思いますか? 私の立場からすれば、ナチスしかいないでしょう。What’s else?(他に誰が?)。あなたはそう思わない? だから私は行きません。まだそうなんです。戦争の後は、何度か行きました。私のパパの家があったから。パパとママが死んだ後に、それを売るために2、3度は行かなければならなかった。悲しいです、とっても。でも仕方がない。だから、私は「パンドラの箱」を開けない方が良いと思います。まだ、もう少し。後、10年。いや、20年くらい。
伊藤 正直に言えば、僕自身もどこかで「もう60年」という時間の感覚があった気がします。大事な「気づき」でした。ところで、そういうベアテさんにとって「国家」とか「憲法」とは何を意味するものなのでしょうか?
ベアテ 私にはそういう気持ちがあまりありません。私はどこへ行ったとしても、「家族」と一緒にいられたら、そしてそれが良い所ならそれでいいんです。私はニューヨークが大好きだから、ここに住んでいます。ある人は、「ニュージーランドはすごく良い国だ」って言うんです。でも、私にはそういった感情がない。「コスモポリタン」なんですよ、私は。日本のことも大好きです。でも、ひとつの国に対して何か特別な「patriotism(愛国心)」が私にはない。多分それは、いろんな国へ行って生活をしてきたからでしょうね。もうずっと前から私はそうでした。もちろん、戦争の時は大変でした。お父さんとお母さんが、5年間どうしているか分からなかった。でも、私は他の人に比べればきっと楽観的で、「戦争が終われば、全て良くなるでしょう」と思って、ちゃんと仕事だけをして、モラルのある人達がきっと勝つと思ってね。だから、その「patriotism」という気持ちが私には分からないので、鈴木邦男さんみたいな人に会うと怖くなるんです。
私は、「人は人」だと思っています。日本人であっても、中国人であっても、インド人であっても、特に女性については。私達は、みんな泣くし、みんな笑う。人間は基本的に同じ。けれど、訓練とか教育の仕方によっては、それが悪い方法だったなら、良い子供達を「spoil(駄目に)」する。あらゆる国で、随分前からずっとやってきたことです。ある人は、子供が悪いと言う。でも、私はそう思わない。親とか政府とか誰かが教育したことなのだと思う。私の考えは、基本的に私達人間はみんな同じ。確かに「文化」は違う。文化はいろいろです。
私は自分でバングラデッシュ以外のほとんどのアジアを巡ってみました。ヨーロッパも全部は知らないけれど、でもいろんな国へ行きました。仕事の関係で、芝居とダンスと音楽を観てきました。ブータンにも行きましたし、ヒマラヤ地域、チベットみたいな所にも一人で行きました。その上で私が思うのは、ある国でダンスを見ていると、そのダンスの基本は他の国で見たことがあるものなんです。ちょっとは違う。でも、大体は同じ。日本には、剣道とか武道があるでしょう? それらも、中国やインドネシア、インドに似たようなものがあるんですよ。ちょっとずつ変化しましたけど、根本は同じ。それだけ。基本的にはどの国でも子供の教育の為にやっていますしね。そういうこと。私達はみんな人間ですから、大体同じような「希望」があるのだと思います。だから、私は「patriotism」については興味がないんです(笑)。
伊藤 ベアテさんの「国家」に対するスタンスはよく分かりました。その「愛国心」がない前提でいいのですが、「憲法」についてはどう思っているのかお聞きしたいんです。これは、僕自身も純粋にまだ分からないことです。今回いろんな憲法の本を読んでみて、ベアテさんともこうしてお会いしてみて、本来「憲法」というのはとっても自分達に身近なもので、「自分達がどんな風に生きたいか?」「どんな風に暮らしたいのか?」ということと重ねながら考えるものなんだと改めて思いました。GHQがどうのこうのでもなく、政治家に上から押しつけられるものでもなく。ベアテさんにとって「憲法」を一言でいうと何ですか?
ベアテ 今のところは、どの国でもいろんな「法律」が必要でしょう? 何かちゃんとした「organization」がないと駄目。もしなかったら、みんなが自分のことだけをする。それは駄目ですね(笑)。きっと無茶苦茶になるでしょうから、何か基本となる法律がなければならないと思っています。「人を殺すのはいけない」とかね、いろんなそういうこと。そして「憲法」の場合には、いろんなものを決めることができるから、みんなにとって一番良いことを憲法で表わすべきなんだと思います。
伊藤 例えば、今のアメリカの憲法に関して、ベアテさんが「変えたい」と思う部分はあったりしますか?
ベアテ 私は世界中の憲法を改正して、平和を謳った「9条」を入れれば一番良いと思います。
伊藤 なるほど。
ベアテ だって、今までも平和じゃなかったでしょう? この60年の間に、みんな戦ってるじゃない? 見てごらんなさい。アフリカ、インドネシア…。言ってみて下さい。戦争のない国はありますか?
伊藤 戦争がない場所ですか…
ベアテ ニュージーランドではないですね。でも、大体他の国ではありますよ。だから私が言いたいのは、「平和のために」ですよ。それが一番重要なものなの。私たち人間は、もうずっと前から「どうしたらいいか?」って試してきたでしょ? 例えば、インドの「マハトマ・ガンディー」はご存知ですか? それも平和にはならなかった。いろんなことを私達人間はやってきました。ギリシャの歴史はご存知ですか? 遙か昔のギリシャで、女性が戦争に反対する為に行った大きなムーブメントがあったんです。女性がね、平和が訪れるまで「旦那さんと一緒に寝ない」っていう活動。知ってます? とても面白い。『Lysistrata』(アリストパネスの戯曲『女の平和』)って言うの。ぜひ読んでみなさい。ギリシャの昔のクラシック演劇です。男性達が平和にしないと、夫とは寝ないで、みんなで子供も産まない。それは、ずっとずっと前の話です。だから、その時からいつでも戦争はあったんです。
だから「平和」の為に何かをやらないと、どうなりますか? 現代でもそういう動きをね。昨日のイベントで私が言った通り、本当にそう思います。なぜ、日本にはちゃんと「9条」があるのに、その機会があるのに、どうして世界の指導者にならないのか? なぜそれを宣伝しないのか? 日本はそれを全然宣伝してこなかったです。もちろん、アメリカでも。私はアメリカが悪くないとは言いません。アメリカでも、全然日本の「9条」のことは宣伝していませんから、誰も何も知らない。もしかしたら、2万人ぐらいは知っているかもしれません。3万人かもしれません。でも、たったそれだけですよ。3万人がそれを知っていたとしても、こういう大きい国では何の影響もない。興味がないのは、知らないからなんです。今のアメリカは、自国のことだけ心配しているみたい。悲しいことです。
伊藤 世界の平和において「9条」の可能性があるということですね。そうすると現実的な話として、ベアテさんから見た時に、今の日本の自衛隊は「違憲」だと思いますか? つまり「9条」と矛盾しているかということですが。
ベアテ 私が聞いているのは、段々と「大きくなっている」ということですね。だから、今後は「外へ出たい」、そして「他の国を攻撃したい」となっていくかについては、私には分かりません。今は、たくさんの武器の輸入や製造も行っているでしょうから。でも、日本の国民は、広島や長崎に原爆も落ちて、本当に大変な思いをしたはずでしょう? 戦争の悲惨さをよく知ってる人達がまだ生きています。その人達が生きていることが、特に女性ですね。女性の存在は大きく影響があると思います。「平和が最も重要」ということは、日本の女性の心の中に入っていると思います。
私は、日本の男性とはあまり会う機会がないです。私が講演する時にも、あまり男性は来ない。だから、私は男性については言えません。分からない。でも、最近ここ2、3年前くらいから少しずつ来るようになりました。以前は女性だけだったんですけど、今は男性も多くなった。特に、若い男性は講演会に来ると私のファンになってくれるんです(笑)。その人達は「平和」についてよく理解している気がします。
今はまだチャンスがあるんですよ。「Self-Defense Force(自衛隊)」に関しては、ケーディスさんが言った通り、誰かが日本を攻撃すれば、日本も反撃する必要が出てくるでしょう。だから、ケーディスさんが「自衛権」まで放棄させることは止めさせた。でも積極的に攻撃することは、『パール・ハーバー(真珠湾攻撃)』みたいなことをするのは、それはもちろん私も駄目だと思います。でも「軍隊を積極的に外に出さない」という憲法を、今までの日本は大体守ってきたと思います。私がニュースを見て知っているのは、日本の自衛隊はイラクでは戦っていないってこと。日本でも同じ報道がされていますか? 何か現地で製造してるんですって? 行動範囲を決めて、そこからあまり出ないとも。それは本当ですか?
伊藤 そういう報道はされているし、基本的に自衛隊の活動はそうだという認識です。
ベアテ 医者とかナースもいて、お金を集めて食事をイラク人の為に作るとか、そういうことを自衛隊が今までやっていたとも聞きました。イラクへは行っていないので、私は本当のことは知りません。でも、もしそうであれば、この憲法下でそういうことをするのは、私は構わないと思います。でも、本当にすごく大きな軍隊になってしまって、武器をたくさん所持したら、どの軍隊も使いたくなってしまう。きっと誰でもです(笑)。それが「パンドラの箱」なんです。だからそういう意味では、もちろん危険もありますけど、今までのところは憲法を守っているんだと私は思います。だって、日本は本当に「誰」も殺さなかったんですよ、この60年の間。
伊藤 改めて言われると確かにそうですね。「一人」も殺してないんですよね、この60年間。でも「9条」を含めて憲法を維持するとした場合、現在の自衛隊はアメリカに次ぐ軍事費の中でたくさんの武器を所持していて、いくら自衛隊を「Self-Defense」だと限定したとしても、それは憲法の解釈の範囲内ということでいいんでしょうか? もしも憲法を維持するのであれば、「自衛隊」は一度解散をした方がいいという考えもあるみたいですが。
ベアテ それは私には…
伊藤 難しい判断ですよね。「日米安保」の関係まで含めて考えると、さらに難しくて…
ベアテ もちろん難しいですよ。でも、今の日本は本当に「自由」でしょう? 別にアメリカの言うことを聞かなくても、自国だけでできるでしょう? 「独立」じゃないですか。私はそう思います。
伊藤 本当の意味での「独立」っていうことですかね。
ベアテ そう。本当に独立です。私は「Defense Force」を改憲して、本当の「Aggressive Force」になったら、非常に危険なことになると思います。特に他のアジアの国は、それに関してとても敏感でしょう? だってあの人達は、日本の「Aggressive Force」のことをよく知ってますからね。日本人が「Atomic bomb(原爆)」のことをよく知ってるように、他のアジアの国では、日本が攻撃したこと、レイプをしたことをよく知っています。だから、もしそうなったら…。本当に大変なことになってしまうと思います。私は「世界の終わり」だと思います。
伊藤 世界の終わり?
ベアテ 全世界のです。
伊藤 日本の憲法を変える、「パンドラの箱」を開けることがですか?
ベアテ そう。今のイラクの戦争がもっと進んでしまって、例えばイランも入ってきて、そうしたらそれは「全世界の終わり」になると思います。土井先生も同じことを言ってました。「20年の間に全世界が焼けてしまう」と。私の誕生日パーティーがあったんです、10月に名古屋で。そこに土井先生が来て、その時に私は土井先生に聞いたんです。「あなたはまだ楽観的でいられてますか?」って。そしたら「今すぐ何かを建て直さなければ、何かをしなければ、このまま行ったら世界は20年で終わります」って答えました。悲しいけど、私もそう思います。だって、その時には私はもう生きていない。でも、あなた達は生きている。そして、私の孫が生きてる。かわいそう。ただそれだけですよ。他の人は他の考えを持っているかもしれない。でも、今の私は全く楽観的ではないです。今の時期は、本当に悪い状況…
伊藤 日本ではなく、世界がということですよね?
ベアテ 世界中です。全世界。本当に逃げることを考えたら、どこへ行ったら良いでしょうか? ニュージーランド? カナダ? それもとても大変です。コスタリカには陸軍が全然ない。他の国にも「平和を守りたい」という、何かそういうことが書いてあるみたいですけど、はっきり「9条」のように書いてある憲法は世界にはないんです。だから、本気でみんながそれを宣伝すれば、もちろん、アメリカでもどこでも。やってごらんなさい、1回。いろんな国が「Nuclear bomb(核爆弾)」を持ってるでしょう? 一人がそれを始めると、他の人も同じことを始める。同じように、平和に関してもやってごらんなさい。
伊藤 アメリカが「9条」を持つのはもちろん難しいと思いますが、アメリカ自身が日本の「9条」をもっと宣伝することは可能なんでしょうかね?
ベアテ アメリカが宣伝してくれる?
伊藤 もちろん日本でもするとして、でもアメリカが「9条」を広めることができたとしたら、それは本当に世界を変えられるかもしれない。
ベアテ 私もそう思います。でも、私はみんなで全世界の憲法に「9条」を入れたい。ピース・ムーブメントの偉い人が「日本の憲法9条が一番すごいから、みんなはそれを真似するべき」と言っていました。だから、そのアイディアを私達はドキュメントにして出しました。2、3年前に。So, I hope, I hope.
伊藤 ベアテさんのこの時代に対する危機感はよく分かりました。最後になりますが、『GENERATION TIMES』を読むような若者に対して、日本国憲法について何か伝えておきたいことはありますか?
ベアテ そうですね。若い人達は「いきたかったら」、何としてでも自分の為に、全世界の為に、自分の憲法をちゃんと守って、「9条」を宣伝して、他の国と手をつないで、みんな一緒に平和の為に一所懸命、朝から晩まで運動しなければならないと私は思います。それを私は期待しています。でも、私は素人ですね(笑)。
伊藤 「いきたかったら」というのは、「生きたかったら」という意味ですか?
ベアテ Yes, if they want to live. 生き抜いていく為に。私は本当にそう思います。頭だけで考えて言っているんじゃないんです。だって、私は「広島」を見ました。私は「長崎」を見ました。私は「東京」を見ました。私は「オーストリア」も見ました。戦争の後すぐ、私は「ソビエト」にも行きました。そこでも見ました。まだ戦争の跡が残っていました。あそこでは「25 million people」が殺されました。「Twenty-five-million-people」ですよ。2500万人が亡くなったんです、ソビエトで。その数を知っていましたか? だから、ドイツや日本とか、他の国の犠牲者数を全部合計すれば、すごい数になるなんです。私はそれを見てきました。自分の目で。だから、とても今がっかりしているんです。本当にどうなるか怖いんです。とても、とっても怖いのです。
私の世代は、第二次世界大戦の後は「平和になる」って本当にみんなが思いました。アメリカへ帰って来て「Cold War」の前まで、そう思っていました。もう二度と戦争はない。あまりに大変なことだったから、みんな分かっているはず。今度こそ平和にと。でもこの60年の間、平和な時期は全然なかった。とてもたくさんの人が、また殺されました。今はまたイラクで。そして、アフリカ…。他の国のどこへ行っても…。どうなるか分かりません。でも、努力しなければならない。投票するなり、どうにかしてでもやってみないと駄目です。ガンディーとかそういう人達が成功しなかったけれども、これは成功するかもしれないでしょ? だってこの60年間、「9条」は日本の為には成功した。それは参考になるんじゃないでしょうか。
伊藤 ひとつの、成功事例。
ベアテ 大きい成功。
伊藤 世界に対して…
ベアテ 日本は本当にすごいです。経済的にもすごく良くなったでしょう。今はそんなに良くないかもしれませんけど、以前と比べれば、何においても今の日本はすごいですよ。私はいつもびっくりするんです。講演会で日本の田舎へ行くでしょ。そこで講演する時に、建物とかホールとかすごいですよ。どこに行っても。いろんな地方に行きました。沖縄、仙台、青森、北海道、岐阜…。どこに行っても、何か「女性の会」みたいなものがあるんですよ。その人達の建物がすごい。そこで生け花を習って、英語を習って、子供の為にちゃんとすぐ傍に部屋があって、お母さん達が子供を見られるようになってるんです。だから泣かない。ちゃんと、誰か家庭教師みたいなスタッフがついていて。すごいと思う。しかも、かなり田舎にもそういうのがあるんです。ワンダフル。だから、そういう方向に日本が行くんだったらワンダフル。
でも、憲法を改正すれば、良い方向に改正してくれないでしょう? だって、今が一番良いのですよ。特使だったダレスさんが言っていた通り、これは「Model(模範)」ですよ。彼がそれを言ったのは「9条」や「24条」などいろいろな条文について。ダレスさんは、日本国憲法は「全世界のBodyだ」と。あの人は本当に頭の良い先生です。よく分かっている。繰り返し同じことを言ってもしょうがないですけど、そういう機会が日本にあるということは、すごいことなんです。世界の平和の為の機会がある。
でも、あくまで「人は人」です。理想を実践することは難しいです。私達もまだ変なことをやっているし、あなた達もやっている。どこへ行ってもまだ、とっても大変な状況です。しかし、世界中のいろいろな場所で、「女性の権利」や「経済」、いろんなことが少しずつ良くなりました。特に「Third World countries(第三世界諸国)」でね。少しは良くなりました。でもまだまだです。私がアフリカに行った時、私は思わず夫に「こういう状況を私は見れない。もう帰りましょう」と言いました。インドネシアでも…。空港のすぐ傍から25マイルにわたってホームレスだけなんです。25マイル(約40㎞)ですよ! 人間として、いつかはそれを全部改善しなければならない。日本でも今のアメリカと同じようなことが起きてますか? 金持ちがどんどんとお金持ちになって、貧乏人はよりもっと貧しくなっていく…
伊藤 「経済格差」の問題ですね。
ベアテ 以前の日本で素晴らしいと思っていたことは、日本のお金持ちの家は普通の人の家とそんなに変わらなかったこと。もちろん、畳がもっと良い畳で、繊維が絹だったりはしたけど。食事は多分お金持ちの方が良かったりしたと思うし、特別に「luxurious(豪奢)」な部分もありましたけど、そんなには格差がなかった。でも、今は随分と違ってきてしまったみたいですね。
伊藤 そうですね。格差はどんどんと広がっています。
ベアテ でも、アメリカも同じです。今はものすごい「Billionaire(億万長者)」がいます。だから、あなた達の世代が可哀相です。まだ若い人から。歳を取っている人はもう仕方がない。どうせ死んでしまうから。1年前に死ぬか、1年後に死ぬのかの違いだから(笑)。そんなに大変じゃない。でもあなた達は…
伊藤 ありがとうございます。やれることは小さいですが、僕自身は諦めてはいません。「I never give up」です。
ベアテ You never give up. Good! それがいい。あなたはそれを他の人達に伝えなければいけません。でも、難しいことですよ、それは。だって、他の人達が同じ考えではなくて、あなただけがそうだとしても…。でも、私達もみんな、まあ“みんな”じゃないですけど、いろいろな人達がそういう気持ちでやっています。今でも。以前よりは少ないと思います。けれど、まだそういう“前向き”な人達がいる。でも、何かしないと。考えるだけでは「not enough(十分じゃない)」。You have to do. それをみんなでね。
市川房枝先生がまだ生きていらっしゃればね…。亡くなる2年ほど前に、市川房枝先生と私はランチをしたんですよ。東京タワーにランチをする場所があるでしょ? あそこで食べながら、私は「先生は今度は何をやりたいですか?」って聞きました。そうしたら「私は来年イラクに行きます!」って言うんです。「先生、なぜイラクに行くんですか?」と尋ねると、「イラクの女性達に“女性の権利”のことを教えなければならない」って。当時、86歳だった。そして、本当に行ったんです。帰って来て、病気になって亡くなりました。そういう人は、ずっと変わらないです。ずっとずっと変わらずに行動している。とっても純粋な人です。ワンダフル。とても尊敬しています。
伊藤 今日は本当にベアテさんに会いに来て良かったと心から思いました。まだ、頭の中を全然整理できていないですけど、いっぱい、たくさん貴重な話が聞けました。
ベアテ Thank you. ありがとう。分かります、いろんなことが難しいですよ。Very difficult.
伊藤 でも、来て良かった。
ベアテ ここに来てくれたということは、あなたが一所懸命にやる人だっていうこと。それが私にはよく分かりました。あなたのことを私は全然知らなかったんです。渡辺さんがあまり説明しなかったから。とても忙しかったし。私はね、これを男性の前で言うのは本当は駄目なんだけど(笑)、日本の女性のことを本当にすごいと思ってます。ずっと見てるんですよ。1993年以降は、毎年日本に行きました。だから、いろんな人達に会いました。自分の力でやっている女性は、いろんな分野に入っています。もちろん、会社はまた別のことですけど。メディアの中でも随分頑張っていたし、そして、有名になるようなことは女性の場合がすごい。女性がやったもの。私がいつも驚くのは、女性達が私のところに来る時「実行委員会」を作っている。自分達の力でお金を集めてね。そんなすごさを日本の女性は分かっていないの。すごいことをやったということを。だから私は彼女達にそれを言います。だって、自分ではそれを分かっていないみたいだから。昔の日本では、それは本当にとっても難しいことだったから。
伊藤 本当にその通りですね。今の日本では女性の方が元気ですよ(笑)。
ベアテ でも、I’m very happy you came. あなたみたいな人に会えて、私も喜んでいます。あなたは男性ですから。あなたみたいな女性には私も随分と会いました(笑)。でも、男性にはあまり会うことがなかった。だから良かったです。日本人はとても頭が良いと思います。そしてとても有能。とても純粋な人達がまだたくさんいます。だから、日本が持っている平和へのチャンスを、どうか頑張ってください。日本だけの為じゃなく、みんなの為に。I’m very glad. 私はあなたの成功を祈っています。
伊藤 本当に長い時間、どうもありがとうございました。