B. 移り変わりゆく認識
a. ボスニア政府のルーダーフィン社との契約 –
内戦から独立戦争への変換
1992年5月、ボスニア外務大臣のハリス・シライジッチは、ボスニアの状況に関するアピールを行う為、アメリカ最大手の広報代理店であり、ユダヤ人CEOデービッド・フィンが経営するルーダー・フィン社のワシントン支社を訪れた。訪問の目的は、ボスニアで起こっている戦争を、内戦から独立戦争へと移す事であった。ムスリム人ナショナリストであるイゼトベゴビッチ率いるボスニア政府は、この戦争をグローバルな重要問題にすることによって、国際的な支援を得ようとしていた。さもなければ、セルビア人より少ない兵力しか持っていなかったボスニア人ムスリムは、この戦争に勝つことができなかった。
次の文章は1993年10月、フランスのネットワークテレビ2のジャック・メリノと、ルーダー・フィン社の国際政治局長であるジェームス・ハーフによって行なわれたインタビューからの抜粋である。ジェームズ・ハーフは「民族浄化」および「強制収容所」という言葉を浸透させた人物である。ボスニアでの彼の仕事の為、全米PR協会は1993年、彼に「危機管理コミュニケーション」部門の最高位であるシルバー・アンビル賞を授与した。[1]
メリノ:どの成果を最も誇りにしていますか?
ハーフ:私たちの側にどうにかユダヤ人の意見を移動させたこと。関係資料が主要な危険を含んでいたので、これは非常にデリケートでした。トゥジマン大統領は彼の本「荒れ地:歴史上の真実(Wastelands: Historical Truth)」において軽率すぎました。彼のテキストを読めば、彼が反ユダヤ主義に対して有罪であると分かるからです。ボスニアにおける状況は、クロアチアと比べて良くなかった。イゼトベゴビッチ大統領は、彼の本「イスラム宣言(Islamic Declaration)」の中で、(ボスニアにおける)イスラム原理主義国家の設立を強く支持していました。それどころか、クロアチア人とボスニア人の過去は本物の残酷な反ユダヤ主義として記録されていたのです。何万ものユダヤ人がクロアチアのキャンプにて息絶えています。したがって知識人およびユダヤ人にとって、クロアチアおよびボスニアに敵対する全ての理由があったのです。私たちの挑戦は、この姿勢を転覆させる事でした。そして私達は、みごとに成功しました。1992年8月の始め、ニューヨーク・ニューズデーが(セルビアによる)強制収容所の問題を取り上げました。私たちは、すぐにその機会に飛び付きました。
私たちは三つの大きなユダヤ人の組織、すなわちブナイブリス・ユダヤ名誉棄損防止連盟、ユダヤ委員会、およびアメリカ・ユダヤ会議を出し抜いたのです。私たちは彼らに、ニューヨーク・タイムズに広告を出し、かつ国連の前にてデモンストレーションを組織する様提案しました。これはすさまじいクーデターでした。ユダヤ系組織が(イスラム教徒)ボスニア人の側としてゲームに加わってきた時、私たちは速やかにセルビア人を大衆意識におけるナチ党と同一化することができました。調査資料は複雑なものでした。誰も、ユーゴスラビアで何が起こっているか分かりませんでした。大多数のアメリカ人は多分、アフリカのどこにボスニアという国があるのか、と疑問に思っていた事でしょう。しかし、私たちはたった一つの動きによって、今後それ自体を左右する良い奴悪い奴を示す事ができたのです。私たちは正しい目標であるユダヤ人の聴衆を対象とする事で、勝利する事ができたのです。間もなく、ナチス・ドイツの収容者およびアウシュヴィッツのガス室を喚起する「民族浄化」、「強制収容所」等、感情的に強い内容を備えた言葉が使われる様になる等、報道における語調に明瞭な変化がありました。感情的な変更は非常に強力だったので、誰もそれに反対する事ができませんでした。
メリノ:しかし、あなたが1992年8月2日と5日の間にこれを行った際、あなたは証言している事に対する証拠を持っていませんでした。唯一あなたが持っているのは、ニューズデイに掲載された二つの記事だけでした。
ハーフ:私たちの仕事は情報を確認することではありません。私たちはそのために備えているのではありません。私たちの仕事は注意深く選ばれたターゲットに対し、私たちに有利な情報の循環を加速することです。私達はボスニアに死のキャンプがあると主張したのではなく、私達はニューズデイが主張したものを知らせただけです。
メリノ:あなたは、死に対する重大な責任を引き受けたことに気づいていますか?
ハーフ:私たちはプロフェッショナルです。私達には行うべき仕事があり、また私達はそれを行っただけです。私たちにモラルについて説くために雇われている訳ではありません。またこの全てについて議論を始める事が来た時、私たちは明確な良心を持っています。もしもセルビア人が実際はかわいそうな被害者である事を証明したいのなら、どうぞ。でも、あなたは全く孤立する事でしょう」[2]
b. 強制収容所からの偽のレポート
これはアメリカの内部におけるメディア・コントロールの1つの例であるが、他にも多くの重要な例がある。例えばロイ・ガットマン記者は、その場所を訪れずにオマルスカの「強制収容所」に関する報告書を書き、ニューズデイに記事を公開したが、それにより彼はピューリツァー賞を受賞した。[3]
ITNクルーによって撮影された写真(Tricks of Media)
1992年8月、ペニー・マーシャル(ITN)によって率いられた英国の受賞暦のあるテレビ撮影部隊とロンドンのガーディアン紙の記者エド・ヴィラミーはボスニアを訪れたが、オマルスカにおいて「強制収容所」を見つけることができなかった。彼らの最終目的地はトルノポリェの難民キャンプであったが、それはロイ・ガットマンのオマルスカ「強制収容所」の話の観点から、彼らの編集者が求めている特ダネを見つける最後のチャンスであった。この難民キャンプにおいて、この英国の報道チームは有刺鉄線で出来たフェンスの後ろに立っている背の高く、やつれた男を選んだ。この男の外観は子供の頃結核を患った事に起因しており、また有刺鉄線は、戦争以前からそこにあったものであった。しかしながら、この写真が「強制収容所」という言葉と共に、ニューヨーク・タイムズやロンドンのタイムズ、デイリー・ミラー等の様な影響力のある新聞紙上で公表された。[4]
c. 国際的認識の高まり – 介入を正当化する声
一般大衆に対するこの写真の影響力は甚大であり、またそれは、ムスリム人に対する強制収容所を作った、と申し立てられたセルビア人に対する強い反感を引き起こした。この種の強制収容所はボスニア人やクロアチア人によっても作られたが、ミロシェビッチが既に「サダム化(Saddamized、メディアを使って悪者に仕立て上げる事)」された後であった為、国際メディアはそれを取り上げようとせず、またセルビア側について報道することは困難であった。さらに外国人ジャーナリストのほぼ全員が、旧ユーゴスラビアにおいて民族的に最も混同しており、さらにサラエボ、すなわちムスリム人支持の立場にあった都市に滞在していた。この種のメディア・コントロールはどこにでも存在したが、ユーゴスラビアの内部または外部においても、中立の位置を維持することは非常に困難であった。ボスニア紛争において、セルビア軍は彼らが支配した領域を拡張し接続する事、そしてこれらのエリアの非セルビア人口を排除することの2つの目的を持っていた。1992年の夏までに、セルビア人はボスニアの約70パーセントを支配し、さらに彼らはボスニアの首都サラエボを大砲と狙撃兵にて包囲攻撃した。この状況のために、1992年には、国連安全保障理事会はボスニアにて7,000の国連平和維持軍(UNPROFOR)を展開させた。
1993年5月に、クロアチアは今まで味方であったムスリム人に対し、ボスニア中部の管理、ムスリム人地帯であったヘルツェゴヴィナ地域の首都であるモスタルの支配権を巡り、戦争を始めた。ムスリム人はボスニア中部においてクロアチアに屈しなかった。そしてクロアチア人、また時折ムスリム人も虐殺行為を行なった。[5]
国際会議によって作られたバンス=オーエン和平案は、多くの人達の間で最も有望な提案だと考えられており、1992年から1993年にかけて提案された。それはボスニア在住のセルビア人を除くすべての党によって受理された。このボスニア在住セルビア人の拒否は、国際的圧力が諸外国の軍事介入に発展するのではないかと心配したミロシェビッチのカラジッチに対する苛立ちを招き、セルビアによるボスニア内のセルビア軍への支援の縮小に繋がった。[6]
d. 国連とNATOの変化してゆく機能
セイラ・カメリッチ Bosnian Girl 2003
1993年の春、国連はムスリム人の為に6つの安全地域、すなわち国連平和維持軍が保護を担当する町を設立した。これらの町はサラエボ、ビハチ、ツズラ、ゴラジデ、スレブレニツァとゼパであった。1995年5月、再開されたセルビア側によるサラエボ空爆は、NATOによるセルビア軍への空爆という報復に遭う。その後、セルビア側は350人以上の国連平和維持軍の兵隊を人質に取ったが、彼らは長期間の交渉の末、解放された。7月にはセルビア軍はスレブレニツァとゼパを侵略したが、スレブレニツァにおいては、彼らは少数のオランダ兵の目の前で、何千人ものムスリム男性や子供などを虐殺した。この事件以降、国連とNATOはこうした事件が発生した際に、紛争を終わらせる為により力に頼った反応をする様になった。 [7]
8月に起こったサラエボ青空市場に対する迫撃砲による攻撃に応じ、NATOの航空機は、セルビア軍に対して最初の大規模な攻撃を始めた。しかしこの市場に対しての攻撃が誰による犯行であったのか、未だに明らかになっていない。最終的に1995年11月、トゥジマン、イゼトベゴビッチおよびミロシェビッチは、3週間の徹底的な交渉およびアメリカからの圧力の末、デイトン和平協定に調印した。
2004年1月、サラエボにいたフランス人NATO軍人(Photo by Shinya Watanabe)
デイトン和平協定は、ボスニアの領域の51%を占めるあくまで書類上のみ存在するクロアチア人・ムスリム人による連邦と、残りの49%を占めるセルビア人による共和国という、二つの実体から構成された正式に結合したボスニアの設立を指令した。今日までボスニアは事実上、NATO、ECおよび国連の保護国となっている。
e. コソボ紛争
ウロス・プレヂッチ 「コソボの乙女」 1917
コソボはセルビア人の文化、教会および国家の発祥地である為、セルビア人にとって聖地とされてきた。1389年のコソボの戦いにおいて、セルビア人はオスマン帝国の軍隊に敗れたが、これは彼らの歴史上最も重要な出来事となった。しかし、19世紀までにコソボの人口の大半はアルバニア人で、20世紀後半にはコソボにおけるアルバニア人の人口は80パーセント以上を占めた。多くのコソボ在住アルバニア人が、自身の国家状態を持つか、近隣のアルバニアと結合することを熱望していた。
1912年〜1913年に起こったバルカン戦争の結果、セルビアが初めてコソボを併合して以来、コソボにおける多数派のアルバニア人はセルビアおよびユーゴスラビアの権威に定期的に反発した。ユーゴスラビアの共産主義リーダーであるチトーは1968年以降、コソボの正式な広範囲に渡る自治権な拡大を認めたが、それによりアルバニア系の共産主義のエリートによる大規模な自己統治を認める事になった。[8]
1981年ユーゴスラビア政府は、コソボ在住アルバニア人による、ユーゴスラビア内におけるコソボ州の共和国への格上げを要求した大規模デモを容赦なく弾圧した。コソボの減少しつつあったスラブ系のマイノリティの多くは、この騒動の為コソボを去った。これらマイノリティは1980年代に、人口の20パーセントから10パーセントまで減少した。こうした状況の下、多くのセルビア人が、1989年と1990年のミロシェビッチによるコソボの自治の廃止、およびコソボ在住アルバニア人への拍車をかけた抑圧を熱心に賞賛した。
混乱の中、1992年の選挙にて、イブラヒム・ルゴバによって率いられたコソボのアルバニア地下政府が選出された。ルゴバはコソボの独立を宣言し、さらに自身の学校、選挙、政府および税による地下政府を作り続けた。ルゴバは受動的抵抗および市民の不服従が、セルビアによる支配および抑圧に対して使用できる唯一の適切な武器であると主張した。数年の間、彼のアプローチはコソボのアルバニア人によって至る所で受け入れられた様に思え、さらに人々は平和主義的アプローチの為、ルゴバを「コソボのガンジー」と呼び始めた。クロアチアはその後ボスニアにて起こった戦争状況の為、ミロシェビッチ政権はルゴバおよび彼の地下政府を黙認した。
f. コソボ解放軍の出現
しかしルゴバの受動的抵抗による戦略は、セルビア政府から何ら重要な譲歩を勝ち取る事ができなかった。その為、1990年代の終わり迄には、ルゴバの戦略の失敗は彼の人気および権威を失落させた。1997年後半から1998年前半にかけて、コソボ在住アルバニア人によるコソボ解放軍(KLA)を名乗る武装集団が、地方におけるセルビア警察署に対する執拗な襲撃と共に現れた。
1998年3月、ユーゴスラビア軍部隊は主にKLAおよびその支持者を掃討する為、セルビア特殊警察に加わった。何百人もの人が殺害され、また20万人以上(コソボ在住アルバニア人がほとんど)が彼らの家から離れ、難民となった。これらの人々およびそれらの親類の多くは、小さな一隊から数千に及ぶ危険なゲリラ部隊へと発達したKLAに参加した。1998年7月、KLAはユーゴスラビア軍による反撃によって山間部へ追い返される前にコソボの農村地帯約3分の1を短期間支配したが、これによりさらなる民間の犠牲者を引き起こした。[9]
1998年10月、NATOの空爆の脅威および強力な外交圧力の為、ミロシェビッチはいくつかの軍隊および警察を撤退させ、さらにコソボのある程度の自治の回復を目指しているコソボ在住アルバニア人リーダーとの交渉に参加する事に合意を強いられた。しかしKLAがセルビア人への攻撃を継続する為に再編成された為、ミロシェビッチはその合意を信用するのを停止した。1999年前半、セルビア軍はアルバニア人の村に対して大規模な攻撃を始めた。そしてNATOのリーダーは、この攻撃をコソボの約150万人のアルバニア人に対する系統だった民族浄化の開始として解釈したのである。再び始まった国際的圧力の下、ミロシェビッチの政府およびKLAリーダーを含んだコソボ在住アルバニア人代表は、1999年2月から3月にかけて、フランスのランブイエにて行われた国際会議に参加した。ミロシェビッチは、コソボにNATOの治安部隊を置き、さらにセルビア・モンテネグロ(FRY)全土への無条件入場を要求したこの和平案を拒絶した。(さらなる詳細に関しては、III f.ランブイエ平和条約 – ヨーロッパ政治の腐敗を参照のこと)[10]
g. NATOによるセルビア軍および都市への空爆
1999年3月後半、アメリカの率いるNATO軍は、セルビア・モンテネグロの至る所で軍事および他の標的を攻撃する為、パイロットによる戦闘機および巡航ミサイルの両方を使用し、空襲を開始した。セルビア人による警察および政府組織によるアルバニア人への暴行はさらに激しくなり、ユーゴスラビア軍は村を破壊し、居住者を強制的に追い出した。多くのNATO軍リーダーは、セルビア・モンテネグロへの地上軍の派兵を拒否した為、NATOは4月と5月にその空爆を強化した。以降、攻撃の目標は、ベオグラード繁華街や他の都市など、セルビア・モンテネグロ全域における橋、鉄道、石油および電気設備、および工場へと拡大された。
国連は3月後半から1999年4月末にかけて、セルビアによる攻撃と同様、NATO軍による空爆から避難する為、約64万人がコソボから追い出されたと推定した。彼らのうちのほとんどはアルバニアあるいはFYROM(モンテネグロ)へ逃れ、その結果これらの脆弱な国において巨大な経済的損害、さらにはストレスを引き起こした。1999年5月に、旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)はコソボにおける戦争犯罪の件でミロシェビッチおよび4人のユーゴスラビア高官を起訴した。その後ICTYは調査の末、戦争犯罪の件でNATOのリーダーを起訴することへの要求を棄却した。
1999年6月3日、ミロシェビッチは遂に、セルビア・モンテネグロのコソボにおける正式な主権を再度確約した上で、コソボをNATOおよび国連の保護国とする和平案に同意した。セルビアの歴史的な支持者であるロシアの外交使節は、セルビア・モンテネグロとNATOの合意の為の交渉の間に入る等、主要な役割を演じた。6月10日にセルビア軍がコソボから引き上げ始めた時、NATOは空爆を一時停止した。国連安全保障理事会は、KFOR(コソボ軍)と呼ばれる多国籍平和維持軍によるコソボの占領を認可した。KFORの5万人の軍隊の内のほとんどがNATO加盟国からであったが、KFORはさらにNATOのメンバーでなかったロシアおよび他の国々からのユニットを含んでいた。[11]
e. コソボにおけるメディア報道 - コソボにいる人は誰? - アメリカ合州国およびヨーロッパ諸国の戦略
驚くべき事に、ヨーロッパとアメリカのメディアは、コソボのアルバニア人(彼らはイスラム教徒である)および他のコソボにおける少数グループの宗教背景をしっかりと報告していなかった。より多くの西洋人がコソボ住民の背景に気づいていたのであれば、彼らの視点の中でイスラム教徒はテロリストの側にあると思われていた為、なぜEUおよびアメリカがイスラム教徒達を支援したかと疑問に思う人が何人か出てきたであろう。[12]メディアによる偏見のために、アルバニア人達は単にセルビア・ファシズムの犠牲者として報道されてきた。更に1999年はNATOの50周年のあたる年であった為、ユーゴスラビアを空爆することはNATOの影響力およびNATOの新しい意味を実証する最良の方法であった。
コソボは新ユーゴスラビア連邦(セルビア・モンテネグロ)の一部であり、またほとんどのコソボ在住者は、特にミロシェビッチによる1989年と1990年のコソボの自治の廃止以降、新ユーゴスラビア連邦からの独立を望んでいた。しかしヨーロッパ諸国の大多数が、コソボの独立あるいはアルバニアとの統合を承認する事に反対した。もしヨーロッパ諸国がコソボの独立を認識するとなると、彼らはスペインのバスク地方等の、ヨーロッパにおけるマイノリティによる独立の要求をすべて認めなければならないからである。もしヨーロッパ諸国がコソボのアルバニアとの統合を認めれば、これはヨーロッパの大アルバニア主義への支持を意味しかねず、それは大セルビア主義を掲げたセルビアの試みに反対する為であったNATOによる介入の理論と矛盾してしまう。
もしNATOがコソボにおけるセルビア人による人権侵害のために介入したのであれば、旧来の世界秩序が他国における内戦への介入を禁止しているので、これは旧来の世界秩序を破る事になる。しかしアメリカによって発展していった新世界秩序(ニュー・ワールド・オーダー)の理論を適用する場合、コソボにおける人権侵害は、NATOがその虐待行為に終止符を打つために介入する根拠となる。
ヨーロッパでは、ほとんどの国々が防衛予算を拡大し、さらにアメリカの追随者になる事に気が進まなかった。しかしもしアメリカが人権侵害を黙認した事においてヨーロッパ諸国を非難した場合、ヨーロッパ諸国はその非難に抗議することができなかった。その結果、アメリカ主導のNATO軍による空爆が始まった。しかしこの空爆の為、コソボの状況はより悪化した。セルビア軍による攻勢は強まり、また5日間のうち、6万人が難民となった。さらにNATO軍による空爆は国連決議による認可を受けておらず、それは北大西洋条約を破る事となった。北大西洋条約は、NATO加盟国が攻撃された時、或いは、国連が軍事軍を送ることを要求した時に限り、NATOが軍事力を使用することが出来ると明記している。もしアメリカが国連の合意を得ようとすれば、ロシアと中国はこの決定に対し拒否権を行使していたであろう。その為アメリカはこの場合、国連を無視したのである。
しかしNATO軍によるセルビア空爆の後、ミロシェビッチの支持率が上昇する等、西ヨーロッパ諸国およびアメリカへの反感が増大した。2000年3月に開始した空爆は、ミロシェビッチがコソボから撤退する事を決定した時、停止した。その後、国連軍がコソボに配置されたが、コソボの問題は解決されず、行き詰まった。[13]そして、ミロシェビッチの党および極右ナショナリストのヴォイスラフ・セセリ等、戦争犯罪の為にハーグにて起訴されている彼ら両方が、2003年12月29日の議会選挙にて最多議席を勝ち取った。[14]
さらに、ユーゴスラビア空爆はアメリカのユニラテラリズム(単一行動主義)の出現の顕著な例となり、歴史上、より重要な出来事となった。
[1]高木徹著 「ドキュメント 戦争広告代理店 - 情報操作とボスニア紛争」 p309
[2] Merlino, Jaqcues. Les Verites Yougoslaves Ne Sont Pas Toutes Bonnes
A Dire (The Truth from
[3] Conversation with Roy Gutman at
[4]高木徹著 「ドキュメント 戦争広告代理店 - 情報操作とボスニア紛争」 p182
[5] Rusinow, Dennison “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia
[6] Rusinow, Dennison “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia
[7] Rusinow, Dennison “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia
[8] Rusinow, Dennison “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia
[9] Rusinow, Dennison “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia
[10] Rusinow, Dennison “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia
[11] Rusinow, Dennison “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia
[12]田中宇著 「ユーゴ戦争:アメリカ色に染まる欧州軍」1999年4月5日 Tanaka News
[13] 田中宇著 「変わるユーゴスラビア」2000年10月19日
[14] Wood,
Nicholas. "Serb Rightists Are Big Winners, but Not Big Enough to
Rule" The New York Times
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