渡辺真也
クレタ島を訪ねたサモス島生まれのピタゴラスは、エピメニデスと共にイダの洞窟に降りて行ったとされる。当時この洞窟はゼウスの生まれた場所と考えられており、天空神ウラノスと大地の神ガイアの娘でゼウスの母であるレアは、自らの子を飲み込んでしまうゼウスの父で時間の神であるクロノスから我が子を守る為、クレタ島のニンフ、アドラステイアーにゼウスの子守りを依頼した。その依頼を受けたアドラステイアーは、その洞窟へと下りて行ったとされる。
私は当初、このピタゴラスが訪ねたゼウスの生誕地とされるイダの洞窟に行こうと思い、レンタカーを借りに行った。出発当日、レンタカー屋さんのおばさんに「どこに行くの?」と訪ねられ、「ゼウスの生まれたイダの洞窟へ」と答えた。すると、このおばさんがやたらギリシャ神話に詳しく、19世紀に文献学が進むにつれて、ヘシオドスらの資料などから、ゼウスが生まれ育った本当の場所は、クレタ島東部にあるプシクロの洞窟だと考えられる様になった、ゼウスが生まれたのは西にあるイダの洞窟ではなく、東にあるプシクロの洞窟だから、そこに行った方が良い、と提案された。私はこういう出会いには常に何か意味があると考えているので、その提案に従い、東のプシクロの洞窟に向かうことにした。
クレタ島最大の街イクラリオからドライブで東に1時間半ほど、ラシティー高原にあるプシクロの洞窟にやって来た。Psychro(プシクロ)とギリシャ語で書かれていた看板を眺めていたら、頭文字のΨ(プサイ)の文字がとても印象的に私の目に写った。
プサイ(Ψ)は、ギリシャ文字の最後の文字であるオメガ(Ω)の一つ前の文字で、心を意味する。ここから心理学 (psychology)や超能力 (psychic)という言葉が生まれ、さらにシュレーディンガーはΨを量子力学の波動関数の記号として使う様になったのだが、プサイの名が付いた洞窟が、ギリシャの最高神ゼウスが育てられた場所だということに、深い感慨を抱くと同時に、プサイの文字を生涯に渡って作品のテーマとしたアーティスト、松澤宥さんのことを思い出した。
松澤宥さんは、私がニューヨークに住んでいた頃、一番会いたいと思ったアーティストだが、お会いすることができないまま、2006年に84歳でお亡くなりになられた。般若心経や空の概念をテーマに「オブジェを消せ」「人類よ消滅しよう」とした作品を作った彼の存在が無かったら、私はきっと現在に至る研究をしていなかっただろう。
そして偶然にも、プシクロへの洞窟への出発の前日、美術史家の加治屋健司さんのツイートで、日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴーに松澤宥の妻、美寿津さんのインタビューが掲載され、それを読んだばかりだった。
松澤宥さんの死後、私が長野県諏訪にある松澤宥さんの実家にあるスタジオ「プサイの部屋」を訪ねた際、彼の妻の美寿津さんから、この部屋は昔、養蚕に使われていたと伺った。その時私は、ベニスビエンナーレで諏訪大社の木遣り歌を歌った松澤宥は、長野の諏訪大社の歴史、そして養蚕の歴史が、シルクロードを通じて地中海世界に繋がっていることを正確に認識していたに違いない、と感じた。
プシクロの洞窟のふもとに位置する駐車場に車を止めてドアを開けると、一匹の小さな猫が私のすぐ隣にやって来て、「ミャオ」と鳴いた。やたらフレンドリーな猫だな、と思ったのだが、なんだか様子がおかしい。私が山頂に位置する洞窟に向かう坂道の途中、ずっと足下に絡み付いて離れないのだ。こんな人なつこい猫に出会ったのは、初めてのことだった。しばらくこの猫と一緒に歩いていたら、今度は猫が私の行く先を先導する様になり、私を振り返って「こちらだ」という表情を浮かべて、「ミャア」と鳴いた。その瞬間、「この猫は私に何かを伝えようとしている!」という不思議な感覚に苛まれた私は、これを記録を残したいと思い、ビデオ撮影を始めた。
前日に読んだ松澤宥のインタビューによると、大の猫好きだった彼は、一時期19匹もの猫を飼っており、猫が死ぬ度に大泣きしては、庭にお墓を作って埋めてあげたそうだ。また行方不明になった猫の遺体が彼のスタジオ「プサイの部屋」で見つかったと読んでいた私は、この猫はもしかしたら松澤宥の生まれ変わりではないか?と思い始めた。
この猫と一緒に300mほど、10分ほど一緒に散歩しながら登山し、プシクロの洞窟の入り口のチケット売り場に到着した。
すると、そこに放し飼いになっていた一匹の大型犬が、その猫に飛びかかった。驚いた猫はチケットオフィスの屋根の上によじ上ってしまい、降りて来れなくなってしまい、とても残念だった。
仕方なくチケットを購入して、16メートルの深さがあるプシクロの洞窟の中へと降りて行くと、中は立派な鍾乳洞だった。その中から儀式に使われていたとされる動物を形取ったオブジェが発見されており、古代ギリシャ人はこの洞窟を、ある種の胎内体験の場所として選んだのかもしれない、と感じた。
30分ほどで洞窟を見終わりチケットオフィスに戻ると、まだ先ほどの犬が猫の下で待ち伏せていて、すっかり怯えてしまった猫は降りて来れない様子だった。可哀想に思った私は、オフィスのおじさんに、「この猫と一緒に山を降りたいので、あなたの犬を繋いでくれませんか?」と頼んでみた。
するとおじさんは、「この犬は私の仕事が終わった後、一緒に帰るから、その後になれば猫も降りて来れる」と答えた。まだ午前中なのにそんなことを言うおじさんは何て酷い人なんだ!と苛立った私は、「この猫は私の友人なのです。一緒に山を降りたいので、犬を繋いでくれませんか?」と再度頼んでみた。 するとこのおじさんは、「つまり、この猫はお前の女みたいなもんで、お前は彼女を一緒に連れて帰りたいってことか?」と冗談混じりに聞き返してきた。私はおじさんを真っ直ぐ見据えて、迷わず「Yes」と答えた。すると、おじさんはまさかそんな答えが返ってくると思わなかった様で、驚き、動揺した表情を浮かべたが、私が真剣だということが分かった様で、「俺は犬を繋ぐ鎖を持っていないんだ」と言いながら、犬を遠くに連れて行ってくれた。
しかしこの猫、すっかり怯えてしまい、降りてくる様子が無い。それを見たチケットオフィスのお姉さんが、「これを使って」と言ってクッキーをくれた。私はクッキーをおとりに猫をおびき寄せることに見事に成功、屋根の上の猫をにゃんとかキャッチして、抱きかかえることができた。
お世話になったチケットオフィスのおじさんとお姉さんに「エフハリスト!(ありがとう)」と言うなり、私はしばらく猫を抱いたまま、山頂の洞窟から駐車場に向かって山を下って行った。その時私はふと、「私はピタゴラスと同じことを言っているではないか!」と気がついた。
街を歩いていたピタゴラスは、一匹の犬が打たれるのを見て「打つのはやめてくれ、それは昔の友人の魂だ。私には声でわかるのだ」と言ったという。私は期せずして、ピタゴラスの語ったことと同じ様なことを言ってしまい、そしてその言葉が持つ意味を理解してしまったのだった。
私が抱きかかえていた猫は、いつの間にか私の肩によじ上り、私は猫を肩に乗せたまま下山した。駐車場に帰って車のドアを開けると、猫が車の中にまで入って行ったが、しばらくすると、彼の方から出ていった。名残惜しかったけれど、この猫に別れを告げた後に、次の目的地へと向かった。
次の目的地に向かう途中、急に頭の右側がズキズキと疼き始めた。あまりそういう感覚に陥ったことの無い私は、これは何かあるに違いない、と思い、目的地へと急いだ。そこで私は、岡倉天心とフェノロサの発見に匹敵する、歴史的な発見をすることになった。
関連記事:入院体験から考える「わたし」とは誰か、そして魂とは何か? − 一神教と自由意志に基づく民主主義から、多神教と決定論に向けての試論
追記:私はニューヨーク滞在中、アーティストの松澤宥にずっと会いたいと思っていたが、ついにお会いすることなく、彼はこの世を去ってしまった。2012年6月に私が入院した際、病院のベッドの上で、どうしてもクリス・マルケルにだけは会わなくてはならない、という気持ちが湧いてきて、退院後、7月の初めに「ぜひお会いしたい」という旨のメールを送ったばかりだった。
参考:クリス・マルケル監督 映画『Level Five』との出会い 琉球新報 09年5月13日付)
「ぜひあなたにお会いしたいのだけれど、今年の夏のご予定はいかがですか?」と打診した所、マルケル氏から、現在入院中でしばらく時間がかかりそうだ、この場所は新しい友人に会う場所としてはふさわしくなさそうだ、との返事に続いて、こう書かれていた。
「二十歳のあなたが私の映画を見て映画監督の夢を諦めたことは、あなたが今後映画を撮らない理由にはなりません。あなたのクリエイティブ・ライフは 目の前に開いていて、それがあなたの宝なのです。Believe me, I know what I am talking about」
そのメールのやりとりをしてから約3週間後、マルケルはこの世を去った。その訃報を読んた私は、ショックのあまり、声が出なかった。マルケルもメールの返信に、猫のイメージを添えて送ってくれるのだった。もしかしたら、あの猫はクリス・マルケルだったのかもしれない、と思ったりもする。