渡辺真也 (スパイキーアート キュレーター)
五十嵐太郎 (建築史家、東北大学助教授)
悪天候の中、早くから開場を訪れ、プラットフォーム開始を待つ参加者の方
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
「建築」と「芸術」と「国家」の狭間で (2005/3/28)
渡辺真也
愛知万博開始2日前の3月23日、それは奇しくも丹下健三氏の死の翌日であったが、そのタイミングで「もう一つの万博プラットフォーム」を名古屋にて開き、そこで多くの建築家と語る事ができたのは、非常に有益であった。開場となったアーキ・カフェ・ジーベックは建築家と建築家の卵たちが運営するカフェで、その為か集まってきた人たちは建築系の方が多かったという事情がある。
私はプラットフォーム開始当初、今回の展示と国民国家の問題について述べたが、万博の話について述べているうちに、質疑応答は建築と芸術と国家の話へと移行していった。そこで出てくるのは、やはり丹下健三、そして磯崎新、さらにはイアニス・クセナキス、ル・コルビュジェ、フィリップ・ジョンソン、アルベルト・シュペーア等であった。
大阪万博において丹下健三のアシスタント的な立場にあった磯崎新氏は、ある種丹下と共同作業の様な事を行なったが、磯崎氏は大阪万博のお祭り広場における岡本太郎と丹下氏を、自身の中でをこう比較していた。丹下のデザインしたお祭り広場の屋根、すなわち弥生的な皮膜を、縄文的で男根の様なデザインである太郎の塔が突き破ったのだ。そこで「勝負あり」と思った、と著書の中で磯崎氏は語っている。また現実に、現在でも残っているものは丹下氏の巨大な屋根ではなく、太郎の「太陽の塔」である。やはり、太郎はお祭り広場において丹下に勝利したのだ。
丹下は第二次大戦中の1942年、大東亜建設記念造営計画設計競技に1等入選している。彼は富士山麓に大東亜共栄圏の為の巨大な建造物を企画したのだが、彼がこの建物を企画したのは、「大東亜共栄圏万博」が企画された1940年とほぼ同時期である。彼の建築は「大東亜共栄圏万博」と同じく頓挫したが、彼がファシズムに強く引かれていたのは、建築家、または建築そのものが持つ権力に吸い寄せられる性向と同時に、芸術としての限界でもなかろうか。建築は権力に引き寄せられるが、芸術は権力にしばしば離反するものだ。建築家の芸術家に対するコンプレックスは、そんな所にも由来しているかもしれない。
建築と権力におけるこの傾向はフィリップ・ジョンソンについても同じである。彼はファシスト党のメンバーであったという事実が象徴的である。権力の最大の機関はおそらく国家であるが、「建築とは国家だ」という事をおっしゃられたゼネコン勤務の方の意見がとても印象的であった。ゼネコンにとっては、建築は国家そのものであっても何の不思議もない。しかし田中角栄以降連綿と続くこの土建国家の発想そのものが、日本をいつまでも道路工事をしている様な土建国家にしてしまったのだ。
また万博建築において、建築家のディテール侍こと山田幸司さんが裏話を披露してくれたのが大変面白かった。例えば、長久手にある木造建築を装った建築物は、実は鉄筋で出来ており、それに木を張って「エコ」な木造建築の様に見せかけているのである。また開場を繋ぐグローバル・ループは、扇形の支柱により地表を削らないエコなデザインという事になっているのだが、あれは上部を溶接している為そのままのリサイクルは不可能であり、また支柱の長さの問題は地表を削らなくとももっと別の方法で解決できると言う。さらにCO2を吸収すると謳っている150mのグリーンベルトは、あの規模ではCO2削減に役立たない。さらに水を使って部屋内を冷却するというシステムはポンプにて引き上げた水を使っている為、結果としてエコロジーには役立っていない。つまり、万博のエコ建築はまやかしなのだ。
しかし、建築関係者にしてみると、このまやかし建築で、それを見たおばちゃんが、「ああ、これからはエコなんだ」と思い家に木を植える様な事があればそれで良い、と考えている。もしかしたら、それはそうかもしれない。しかし、何とも滑稽な話である。
また、パネリストである五十嵐太郎氏が映画「ヒロシマ・モナムール」に出てくる建築家は、丹下をモデルにしたのではないか」と発言したが、私はそう考えた事がなかった為、非常に興味深かった。実際、「ヒロシマ・モナムール」には平和資料館付近でのシーンがあるが、それは丹下を匂わせたかった、という監督レネの意図があったのかもしれない。
丹下は戦後の1950年、広島平和記念公園を作る。彼が広島での仕事を強く希望したのは、自分が高校時代を過ごした場所であるのと同時に、そこが両親の最後の地でもあったからだろう。その時、原爆死没者慰霊碑をデザインしたイサム・ノグチを、彼のアメリカ人という国籍上不適合と見なし、モニュメントのデザインを丹下に依頼させたのは、丹下の師匠であり、コルビュジェの弟子であり、ナショナリストでもあった前川國男であった。丹下はイサム・ノグチの役割を自らが引き受けるのは恐れ多いと感じ、ノグチのデザインを真似たが、そのモニュメントから離れた場所には、ノグチの「平和大橋」が今でも架かっている。(ちなみに、新装オープンしたニューヨーク・クイーンズにあるイサム・ノグチ美術館にはこの慰霊碑に関する説明書きがそれがヒロシマの為であったとすら書かれてないが、それは完全に美術館側の手落ちである)日本人だと蔑まれる、戦時中にはアメリカが作った強制収容所に収容されていたノグチにとって、前川の態度は腑に落ちないものであっただろう。まさに国民国家の内外問題の狭間に、ノグチは立たされたのである。
丹下氏はその後、東京都庁やフジテレビなどを作り、先日91歳という年齢で他界したが、彼の死とほぼ同時にフィリップ・ジョンソンが他界したのも偶然ではなかろう。一つの時代が終焉したのだ。また、その一つの時代の終焉は、哲学界においては、デリダ、サイード、ソンタグの死であったと言えるだろう。
マルグリット・デュラスとアラン・レネが「ヒロシマ・モナムール」においてヌベールと広島を接続したのは、当時のフランス思想界においてホロコースト批判を真っ向からできなかった、という歴史背景が影響しているとも言われる。私も今回の企画で、レネとデュラスがあたかもヌベールと広島を接続したかの如く、京都とサラエボ、広島とベオグラードを接続することでネーション・ステート批判を試みているが、それは民族紛争や帝国主義戦争を正面から批判しても有効性を持ち得ないのではないか、という意図があるからだ(民族紛争が何かを理解している人は、日本にどれだけいるというのだろう?)
話は飛ぶが、名古屋にて沖縄の「象の檻」の話をした所、それを知らない参加者が多かったのに驚いた。この国の抱えてきた暗部は、本土の人間にとってはまさに対岸の火事なのだろうか。国民国家、権力、それと芸術の関係は、共犯関係なのだろうか、それとも離反する関係なのだろうか。
「建築」と「芸術」と「国家」の狭間で、私は酔いどれ舟の如く、前進する。
もう一つの万博展 in ニューヨーク
2005年8月15(月)60回目の終戦記念日 〜 9月10日(土)まで
セイラの新作"Sejla-san / セイラ 夢 / Sejla Dream"はここで見れます
もう一つの万博展 in 北九州
2005年6月18日 〜 7月1日
もう一つの万博関連レクチャー
in 京都
もう一つの万博プラットフォーム in 東京
もう一つの万博プラットフォーム in 沖縄
もう一つの万博プラットフォーム in ニューヨーク
(Copyright: Shinya Watanabe)