A. 国民国家の発生
a. ギリシャの都市と古代ローマ
最も古い国民国家の祖先は、古代ギリシャの都市国家まで遡る事ができる。古代ギリシャはアテネ、コリンス、スパルタ等ポリスと呼ばれる都市国家によって構成されていたが、こうした都市国家がプラトンやアリストテレス等の政治思想家が出現する背景となった。アリストテレスは政府を三つのカテゴリーに分類しているが、それは一個人による君主政治、少数エリートによる貴族政治、そして多くの人民によって構成される民主主義であった。そしてアリストテレス以降のギリシャにおける思想家は、彼が定義した三つの政府の堕落した形態を目の当たりにする事となる。それらは一個人の利益追求による独裁政治、一部の利権を握った人物による寡頭政治、そして群集による衆愚政治であった。
アテネの増大し続ける影響力は、アテネの脅威を感じた都市国家の連合の構成を引き起こしたが、その結果、スパルタの率いるペロポネソス同盟が形成される事となった。ペロポネソス同盟では、連合した都市国家が、スパルタの敵が同様に彼らの敵になるという条項に同意した。その一方でスパルタは、もし連合した都市国家が攻撃されれば、その見返りとして軍隊を送る義務を負っていた。スパルタはこの同盟における議長都市であったが、また各都市国家には一票が割り当てられていた。ペロポネソス同盟は、多数決によって意思決定を行ったが、それはより帝国主義的であったアテネに率いられていたデロス同盟とは異なっていた。そして、ペロポネソス同盟がアテネを破ることに成功した時、ギリシアの都市中の勢力均衡が回復される事となった。[1]
古代ローマは共和制都市から世界帝国にまで発展したものであるが、それはまた国家の発達に大きな影響を及ぼした。この影響は、国家の主権を確立した憲法は、立法府の設立した条例などの一般法を上回るというローマが達成した偉業にも見られる。[2]
b. カールの戴冠
カール大帝(シャルルマーニュ)は、西・中欧ほぼ全てを含む王国を作り上げ、また彼は、カロリング・ルネサンスとして知られる法的・文化的な整備を行った。彼の帝国における主要な二つの領域、すなわち東フランクと西フランクがその後二つの重要なヨーロッパの実体の大部分となって行った。すなわちそれは西フランクがほぼ現在のフランスに値し、そして東フランクがまず神聖ローマ帝国となり、その後現在のドイツとなった、という意味においてである。シャルルマーニュとローマ教皇の親密な同盟は、中世におけるローマ教皇と王との、連面と連なる関係のさきがけとなった。
カール大帝の最初の動きかけは、北西ドイツの地域ザクセンに対して起こった。ドイツ中部における独立した最後の非クリスチャン部族であったサクソン人は、フランク人との境界を侵入し続け、長期に渡りフランク王国を悩まし続けた。その為カール大帝はサクソン人を彼の帝国に対する重大な脅威と見なし、そして彼はサクソン人をクリスチャンへと改宗させようと試みる。
同様にカール大帝は、ババリア地方および現在のドイツ、そしてスラブ人、アヴァール人の境界領域の一部を東部に併合した。さらに紀元791年から795年の間、カール大帝はスラブ人およびアヴァール人に対し年貢を払うことを強制した。この土地(それらは現代のオーストリア、ハンガリー、クロアチアおよびスロベニアの一部を含む)は、彼の帝国の東側のフロンティアにおける緩衝地域となった。
紀元772年にローマが侵略された際、教皇ハドリアヌス1世が
ローマの近くでカール大帝に助けを求めている様子[3]
紀元800年、教皇レオは、カール大帝にローマ皇帝の王冠を授けた。この行為は、西ローマ帝国における皇族の伝統を復活させ、さらに皇帝の権力がローマ教皇の承認による、という先例を作った。皇帝の名目はカール大帝に何ら新しい力を与えなかったが、紀元812年には事実上ビザンツ皇帝がイタリア中部における彼の統治を認める事となった。[4]
c. 商業都市国家の成立
その一方、こうした君主の絶対的権力を制限する為に行った封建貴族の努力は、結果、代議士による政府に関する理論および機関等の成立に多くを貢献する事となった。中世の時代、商業都市国家はヨーロッパにて発生したが、これらの都市国家は、のちにハンザ同盟および強力なイタリアの都市共和国やコミューンを創造した。[5]
その結果生まれた国民による政府の出現は、二つの主要な原因に起因している。第一は経済、および貿易又は製造業における発達もしくは大規模な拡張など、いくつかの新興現象から成立している。これらの条件は、独立した自給自足の経済主体に基づいており、大きな政治的ユニットの生成を必要とする封建制のシステムそのものを弱め始めた。第二の要因は宗教改革であったが、それはヨーロッパ諸国のいくつかにおける、政治的発展に対するカトリック教会の抑制的な影響力を排除する事が成功した為である。
d. 近代的国民国家の生成
近代における国民国家は、16世紀に明確な政府の形となっていったが、それは完全に王家によるものであり、また独裁的であった。王座にある君主の決定はフランスのルイ14世の有名な言葉「 朕は国家なり(L'etat、c'est moi)」に示唆される様に絶対的なものであったが、君主の無制限であった力は人々の反対に遭い始める。英国では、1688年の名誉革命がそのような王権を制限し、議会の優越を確立したが、この傾向は、1775年に始まったアメリカ独立戦争、および1789年に始まったフランス革命という二つの歴史的に重要な出来事により最高潮に達した。歴史家は一般的にこれらの出来事を現代の民主主義政治の発生と位置づけている。
e. フランス革命、ナポレオン戦争とスペインにおけるパルチザン
ナポレオン戦争は、フランスにおける元の君主制を回復しようと試みたハプスブルクおよびヨーロッパの他の王朝の統治者が、合同でフランスの革命的な政府を打倒しようとしたものであった為、フランス革命の延長による戦争であったと言える。しかしながら、しばらくの間ではあるが、ナポレオンは戦争中に本質的な進歩を遂げ、ヨーロッパの大部分を支配した。
ヨーロッパの地方における市民にとってのナポレオンの征服の重要性は、徐々に解放軍から圧力へと変化していった。そして、ナポレオンに対する最初のレジスタンスはスペインにて起こった。スペインの市民による闘争の開始は、スペインの王室のメンバーを削除しようとしたフランス軍に対してであった。市民の不満が爆発したのである。1808年5月2日、マドリッド市民は彼らを苦しめているフランス軍に対して立ち上がった。バルセロナの労働者が1936年に行ったように、彼らは職業軍人に対して、包丁、棍棒、古い狩猟用ライフルおよび素手で戦ったのである。彼らは異常とも言える勇気でフランス軍を攻撃したのだ。[6]
フランシスコ・ゴヤ 1808年5月2日, 1808年5月3日 1814
この絵画1808年5月2日と1808年5月3日は、1814年にスペインの芸術家フランシスコ・デ・ゴヤによって描かれた。ゴヤの目的はナポレオン軍兵士によって撃たれた多くの民間人の記憶と共に、スペインの解放の為の戦争を記憶する事にあった。ゴヤのキャリアの中でも後期において、彼は人類の運命に関して憤激する様になり、また彼の姿勢は、この作品に見られる様に生々しく、そして表現に富んだ質感によるスタイルによって表現されている。
若きヴィクトル・ユーゴーは事件の目撃者であった。ナポレオン軍の将軍のうちの一人であった父を訪れる為に警護と共にやってきた彼は、スペインの民家にて夜を過ごした。彼はその事をこう回想している:「家具ですら敵意を持っていた。椅子は我らをひどく扱い、壁は我らにこう言ったのです。『立ち去れ!』と。[7]
ナポレオン戦争における権威であるミゲル・アルトラ教授はこう言っている。
「我々は、アラビア人の侵入の記憶を持っていた。また、我々がどのようにそれを拒絶し、それらを追い出したのかについての記憶も持っていた。そして、我々の聖職者および修道士は心理学的な戦争を行ったのです。彼らはナポレオンがローマ教皇を拘束し、教会に対する他の処置を取ったことを知っていた。そこで聖職者たちは、小さな宗教の本を出版し、その中でフランス人を殺すことは罪ではない、と何度も説明した説教を行なったのです。また、スペインの誇りとしてのナショナリズムがありました。ナポレオンは我々の王を追い出しており、自分の親類を高官に配置したのですから。」[8]
ナポレオンは、8万人の軍隊でスペインを維持できるだろうと信じていた。しかしながらその数は32万人に到達し、そして毎日、死者が出たのである。ナポレオンはスペインの性格を誤審した。「私を殺したのはスペインでの悲惨な事件であった」、ナポレオンはその数年後、聖ヘレナにてこう回想している。 [9] このパルチザンによる抵抗のエピソードは、国家間の戦いから非対称の格闘者へと戦争の定義を移した史上初のパルチザン闘争の出現として、歴史上重要である。しかしながら、1814年のウィーン会議は戦争の古い規則であった「ヨーロッパ公法(jus publicum europaeum)」を回復した。その後第一次世界大戦まで、パルチザンは「ヨーロッパ公法」の領域外の戦士と見なされた。つまり、パルチザンは兵士としてではなく犯罪者として裁かれたのである。
ドイツの理想主義者哲学者でまたベルリン大学の最初の学長として知られているヨハン・ゴットリーブ・フィヒテは、1798年に発表された著書「知識学にもとづく倫理学の体系(Das System der Sittenlehre nach den Prinzipien der Wissenschaftslehre)」等の中で、世界のモラル秩序および社会のモラルの性向について書いている。ドイツ諸国家の独立がナポレオンの野望によって危うくされていた期間である1808年に書かれた「ドイツ国民に告ぐ」において、フィヒテはドイツの国民意識の高揚を熱心に主張した。スペインやドイツのみならずヨーロッパのほぼ全土がナポレオン戦争による影響を受けたが、この精神的動揺が今日のナショナリズムの出現に繋がっている。
f. クロアチアとスロベニアにおけるナポレオン戦争の影響
ナポレオン戦争はフランス革命の延長線上の戦争であったが、それはナショナリズムの高揚および1848年に起こった革命の下準備を行った。そして、クロアチアとスロベニアはこの広範囲に及ぶ歴史的現象の一部を担った。
現在のクロアチアがある地域の中で最初期の住民は、紀元10年にローマ人に征服されたイリュリア人(Illyrians)であった。彼らの土地イリュリクム(Illyricum)はローマの州であるパンノニアとダルマチアとなった。ローマの力が衰えるにつれ引き起こされた、主にドイツ系の民族による頻繁な攻撃および広範囲に及ぶ破壊は、6世紀に起こったモンゴルまたはトルコ起源と呼ばれているアヴァール人(Avars)と呼ばれる遊牧民族の征服によって最高潮に達した。
スラブ語の種族(彼らはおそらくアヴァール人と共に来たか、または単に彼らの母国、つまりほぼ確実と思われるが現代のウクライナ、ポーランドおよびベラルーシのエリア、から追い出された)は、その後中央および南東ヨーロッパに定住する様になった。[10]パンノニアとダルマチア地方においては、彼らはクロアット(Croats、現地語でフルヴァティ”Hrvati”)、つまりクロアチア人と呼ばれ始めたが、この名前「フルヴァティ”Hrvati”」は、スラブ民族を支配したペルシア人がそう命名したと推測されている。[11]
623年、フランコ・サモと呼ばれる首領が、現代のハンガリーから地中海へまたがる地域に初めてスロベニア国家を作った。この国家は8世紀まで存続した。
8世紀末、フランク王国の皇帝カール大帝の軍隊は、アヴァール人を打ち負かした。その後、クロアチア人および他のスラブ民族連合は、西側のローマカトリック教会のフランク王国、東側の東方正教会のビザンツ帝国にまたがる多くの小さな州を設立した。歴史上、ほとんどのスラブ国家は複数の帝国によって支配されてきた。そして、クロアチア人の様にフランク王国に接近していた人達はローマ・カトリック教徒になり、そしてセルビア人の様にビザンツ帝国に接近していた人達は東方正教会教徒となった。それ以来、宗派の違いはクロアチア人とセルビア人の間の対立の主要な部分となった。トミスラフ王(910-929)の統治の下、クロアチアは独立した王国となり、パンノニアおよびダルマチアの両方、そして時折ボスニアを含んだエリアにまで拡大した。[12]10世紀には、スロベニア国家は神聖ローマ帝国皇帝オットー1世により、カランタニアの公国として再編成された。
クレシミール4世およびズボニミール王の支配後、11世紀のクロアチアにおける王座の不安定な相続は、ハンガリーの侵入を招いた。1102年には、クロアチア貴族による選択またはハンガリーの軍事力の為、この2つの王国はハンガリー王の下に連合した。その後1918年まで、ハンガリー王はクロアチア王を兼ねていたが、クロアチアは自身の議会を持ち、ある程度の自治を維持していた。また1420年以降、都市国家ヴェニスはダルマチア地域全体をコントロールしていた。しかし1526年にハンガリー王ルイ2世が殺害され、彼の軍隊がモハーチの戦いにてオスマン帝国に敗れた後、オスマン帝国は150年以上に及び、ほぼ全てのハンガリーおよびクロアチアにおける支配を確立した。1526年にルイ国王の治世を継承したオーストリアのハプスブルク家は、1699年までにハンガリーとクロアチアからトルコ人を締め出した。
現在のクロアチアの地図[13]
クロアチアは分割され続けた。ナポレオンが1797年にヴェニス共和国を廃止するまで、ダルマチアとイストリアはヴェニスによって統治されていた。ダルマチアとイストリアが1815年にハプスブルク帝国に加わった時、それらはハンガリーの州ではなくオーストリアの一部となり、他のクロアチアの土地から分断され続けた。19世紀後半まで、それらの領域の大部分は直接的なオーストリアの支配の下、ハプスブルクの軍事のフロンティアの一部として残ったにも関わらず、クロアチアおよびスラボニアは、正式にハンガリーの一部であった。またハプスブルクの招待に応じ、多くの東方正教会教徒のセルビア人が、特権のある農民兵士としてそこに定住した。その為、セルビア人はクロアチア内部のクライナ地方における人口の大多数となった。[14]
1848年には、総裁ヨシップ・イェラチッチおよび彼のクロアチア軍軍隊が、オーストリア人を助け、ハンガリーの革命を鎮めるのを手助けした。クロアチア人のリーダーは、ハプスブルク家が彼らの支援に報い、ハンガリーから独立した統一クロアチアの設立を認可することを望んだ。しかし、1867年のオ−ストリアとハンガリーは歩み寄り、結果オーストリア=ハンガリー二重帝国を生み出し、またクロアチアとスラボニアをハンガリーに、ダルマチアをオーストリアへと割り当てた。その為、クロアチアの統一およびより大きな自治権は、第一次世界大戦開始まで、ほぼ全てのクロアチアにおける政党の主要な要求となった。
スロベニアおよび南スラブ族のナショナリズムは、1918年に第一次世界大戦の終了後、1929年にユーゴスラビア王国と改名されたセルビア人、クロアチア人およびスロベニア人による王国の成立と共に成功を収める事となる。
B. 20世紀ヨーロッパ
a. カール・シュミットとパルチザンの理論 – ナチズムの誕生
著書「パルチザンの理論」の冒頭にて、ドイツの哲学者カール・シュミットはスペインでのパルチザンの重要性を論じている。1808年のスペインにおけるゲリラは初のパルチザン闘争として発生したが、近代的な軍事力に対し、彼らは果敢にも「非公式の」戦闘を繰り広げた。
シュミットによると、パルチザンは正規の軍隊組織の成立を前提として初めて成立すると言う。ナポレオン戦争の場合には、ネーションの形式および軍隊は、ナポレオンによって構成されたフランスの政府およびフランス軍によって定義されていた。つまりナポレオンによって率いられた正規軍の発生の為、スペインの市民はパルチザンとなり、正規軍であるフランス軍に対して闘争を繰り広げたのである。
b. マルクス・レーニン主義の混合 パルチザン闘争の創造物としてのユーゴスラビア
シュミットは、さらにパルチザンの理論は元来土着的な闘争から発生したものであったが、絶対的な敵対概念作成した共産主義の世界革命戦略によって復活したと主張している。この敵対概念の定義は、フランス革命以前に成立していた戦争の定義、すなわち戦争は国民国家間の戦いである、という定義そのものを脱構築してしまったのである。ユーゴスラビアの場合、チトーのパルチザンは全てのスラブ民族を共産主義の名の下に集める事となり、そしてナチス・ドイツ、すなわちスラブ民族の土地に侵入してきた者は絶対的な敵になったのである。
一方、このパルチザンのイデオロギーはネーション内部における階級闘争を招く危険性がある。パルチザンの影響力は、ネーションにおける異なる階級者を追放するばかりでなく、彼らを消滅させようとする。パルチザンは内戦を引き起こす可能性があるのだ。
主権国家間の戦争の場合には、「正確な敵」が明白に定義される。その結果、この枠組みは戦争の領域を制限する事となった。その為、ヨーロッパの大部分は残忍な宗教戦争および過去に行われてきた内戦から脱却する事ができたのである。
既に述べた様に、1814年のウィーン会議は戦争の古いルールである「ヨーロッパ公法jus publicum europaeum」を回復した。その為、パルチザンは第一次世界大戦まで「ヨーロッパ公法」の外部である「非公式」軍隊として定義された。つまり彼らは、捕らえられ裁判に掛けられた時、捕虜あるいは戦争犯罪者として裁かれたのではなく、犯罪者として裁かれたのである。著書「戦争概念の差別化への移行Wendung zum diskriminierenden Kriegsbegriff」において、ナチ党のメンバーであったシュミットは、戦闘員と非戦闘員との区別の廃止について「弁証法的止揚」として弁護し、「敵対関係の緩和ではなく強化」として積極的に評価していた。[15]
c. 内部と外部の新しい定義
20世紀において、冷戦による東と西の対立は、新しい「空間秩序raumordnung」を生み出した。冷戦中、東と西の両サイドがおのおのの敵を識別しようとしたが、このプロセスはパルチザンの現実的又は実用的な敵対を、絶対的な敵対へと移行させた。しかしながらこの空間秩序は他の地域においてではなく、ヨーロッパの地域においてのみ有効であった。その為、ベトナムの様なヨーロッパの外部では、ヨーロッパの中では決して使用されなかった残虐な武器が使用される事となった。
例えば「ここ」や「そこ」、「文明」そして「テロリズム」、あるいは「安全地域」「危険地域」等、空間の内部と外部を言葉にて分断する事は幻想でしかない。ベネディクト・アンダーソンの重要な著書である「想像の共同体Imagined Communities」はこのテーマについて考察している。しかしながら、そのような空間を区別する構造が存在し続ける限り、世界はテロリズムおよび逆テロリズム、聖戦の正当化および帝国主義等の恐怖から逃れられない。なぜなら人々はパルチザンに対してパルチザンをもって戦うからである。[16]
d. ナショナリズム定義の違い – エドワード・カー、ハンナ・アレントとベネディクト・アンダーソン
1939年にロンドンでエドワードH.カーによって公表された「ナショナリズム:王立国際問題研究所メンバーによる研究グループによる報告書 Nationalism: A report by a Study Group of Members of the Royal Institute of International Affairs」は、ナショナリズムが様々な特性を持っていることを指摘している。例えば19世紀のナショナリズムは、1つの民族グループによって支配された政治組織を構成しようとした。このナショナリズムにおける考えは国際協調主義に適合することができ、従って19世紀におけるナショナリズムは不道徳なものと見なされなかった。しかし20世紀において、ナショナリズムはより攻撃的であった。民族主義運動は、国家の境界を拡張し、かつ民族のモラルに関する定義を求め始めたのである。[17] ナポレオン戦争および1848年の革命におけるクロアチアおよびスロベニアの民族主義運動は、19世紀型ナショナリズムの典型と言える。しかしながら、ナチス・ドイツに特徴づけられるナショナリズムは、それとは異なる現象であった。ナチス・ドイツおよび他の場所で起こったナショナリズムの為、20世紀の後半におけるナショナリズムのイメージは否定的なものとなった。
しかしながら、ハンナ・アレントによるナショナリズム定義はそれとは異なっている。著書「全体主義の起源Elemente und Ursprunge Totaler Herrschaft」において、アレントは、西欧型(Westeuropaischer Pragung)ナショナリズムと種族的ナショナリズム(der volkische Nationalismus)の間の差について論じている。西欧型ナショナリズムは、フランス革命後に国民国家を作り上げた。この形式のナショナリズムでは、民族アイデンティティが長期に渡る歴史上のプロセスで形成され、民族的帰属と国家機構とが相互に融合し一体化される事によって成立している。
種族的ナショナリズムは中央および東ヨーロッパにおいて当てはまる。これらの国々の民族グループは西欧諸国の影響を受けて国民意識に目覚めはしたが、彼らの間には共通の明確な国民的一体感がなく、あるのは「不明確な種族的共同体帰属感」であった。これらの民族グループは西欧のものとは異なっており、共通の歴史、言語および居住地を持っていなかった。その為、これらのナショナリズムは、「血」という人種主義的虚構に頼り統一を試みる他なく、その為汎民族主義の動きを生み出したのであった。
さらに、これらの二つのナショナリズムは、国家との異なった関係を持っている。元々、国家の設立は人種の意識の誕生より長い歴史を持っている。また国家の機能は自身の領土内の住民すべてを彼らの民族的背景とは関わりなく法的に保護することにある。しかし、民族の国民的自覚は、国民の民族的特定化を推進する。この民族的特定化は、国家本来の「最高機能」と衝突し、「国民国家の悲劇」を引き起こすことになる。この「国民による国家の征服die Eroberung des Staates durch die Nation」という危険は西欧型のナショナリズムにおいては起こらなかったが、それはこのタイプのナショナリズムは当初から国家と結ばれ、国家への忠誠もしくは国家的性向を捨てた事がなかったからである。一方、拡大された種族意識による種族的ナショナリズムは、国民による国家の征服を実現しようとし、現存の多民族国家を破壊しようとする汎民族運動を生み出し、全体主義の先駆けとなった[18]
ベネディクト・アンダーソンによると、ナショナリズムには3つの波があると言う。これらは北米と南米におけるクレオール・ナショナリズム、ヨーロッパにおける言語ナショナリズム、そして植民地主義ナショナリズムである。
e.
言語ナショナリズムとセルボ・クロアチア語の創造
1800年から1850年までの間に、北部バルカン半島の学者たちはスロベニア語、セルボ・クロアチア語とブルガリア語という三つの異なる文語を作成した。また1830年代において、ブルガリア人はしばしばセルビア人とクロアチア人と同一と考えられており、さらにブルガリア人は1835年から1848年までスラブ諸民族の文化統一運動であるイリュリア運動に参加していた。しかしながら、ブルガリアは1878年には独立した公国となった。
ポーランドからセルビア政府へ送られた助言者は、皇帝ヨーゼフ2世およびナポレオンによって古くからバルカンの人々を指す言葉として使用されていたイリュリアの名前を使用し、イリュリア国家を設立する事を提案した。この同じ名前はクロアチア伝道者によっても、すべての南スラブ人の共通の名前として使う事を提案された。イリュリア国家についての概念は、セルビアの指導の下、セルビア人およびクロアチア人のみならず、スロベニア人とブルガリア人を含むすべての南スラブ民族の単一国家への混同を引き起こした。[19]
1850年には、ドイツやハンガリーからの文化的脅威に対抗する為、何人かのクロアチア知識人がウィーンでヴーク・ステファノヴィッチ・カラジッチに会い、クロアチア人とセルビア人を統合する言語政策を促進する契約を結んだ。その結果、仮想的共通言語について記述するために使用される表現「セルボ・クロアチア語」が1866年初めて出現した。[20]
クロアチア人はセルビア語から導入したストカビアン方言を使用する事で、言語的統一を図った。そしてカルカビアンやチャカビアン等の真正クロアチア方言は、ゆっくり公共の場における使用から消えて行った。さらにセルビア語キリル文字からラテン語表記へと書き直されたストカビアン方式による表記が、クロアチアにおける文語の標準となった。このストカビアン方式の導入のために、クロアチア人は彼らにとって最初の重大な目標であったネーションにおける言語と文化的統一を達成した。[21]
ジョルジュ・カステランは、ハンガリーの圧力に対抗するクロアチア人による闘争の為、クロアチア人がセルビア人との同盟を必要としていたと指摘しており、またこの必要性は、短期間ではあるがセルボ・クロアチア協力期間(1848、1867-1868)を招いたとしている。この協力に関して、ドゥサン・バタコビッチはこう述べている:
それらはヨシップ・ユライ・ストロスマイヤー率いる新イリュリア人民党周辺に集められたリベラルなカトリック教徒のグループによって特徴づけられた。彼の聖職者としてのクロアチアにおける民族問題に対する選択は、国家を超えた言語モデルとの互換性を持った。第一にカトリック教徒、そして第二にクロアチア人と、ストロスマイヤーはカトリックのリベラリズムの原則によって、イリュリアによって提案されたユーゴスラビアの考えおよび言語的統一を取り入れようとしたのである。南スラブ民族の文化的・政治的な統一の中で彼は、二つの論争しているキリスト教の教会、つまりローマ・カトリックおよびセルビア正教を和解させて結合する為の手段を一つしか知らなかったが、そこではクライナ、ボスニアそしてセルビア、ローマ・カトリック教の統一は、カトリックの最終的な受け入れへの一時的な手段への道のりとしてセルビア人に課せられた。[22]
こうした歴史背景は、特にユーゴスラビアの分裂以降におけるナショナリズムの出現を考える時に、非常に重要となってくる。
[1] Thucydides. Translated by Warner, Rex. History of the
Peloponnesian War Penguin Classics Reprint edition
[2] Burke, Robert E. “Government” Microsoft Encyclopedia
[3] Encarta Encyclopedia CORBIS-BETTMANN/Archivo Iconografico
[4] Harrington, Joel F. "Charlemagne" Microsoft Encyclopedia
[5] Burke, Robert E. “Government” Microsoft Encyclopedia
[6] Woods, Alan. Art and Revolution The Life and Times of Goya - The dream of reason
[7] Woods, Alan. Art and Revolution The Life and Times of Goya - The dream of reason
[8] Putman, John J. “Napoleon.” National Geographic. February 1982
[9] Putman, John J. “Napoleon.” National Geographic. February 1982
[10] Rusinow, Dennison, Hayden Robert M and Dyker
David “
[11] ジョルジュ・カステラン/ガブリエラ・ヴィダン著 「クロアチア」 Croatia p24
[12] Rusinow, Dennison, Hayden Robert M and Dyker David “
[13] Rusinow, Dennison, Hayden Robert M and Dyker David “
[14] Rusinow, Dennison, Hayden Robert M and Dyker David “
[15] 亀島庸一著 「20世紀政治思想の内部と外部」 p200
[16] 亀島庸一著 「20世紀政治思想の内部と外部」 p47
[17] 亀島庸一著 「20世紀政治思想の内部と外部」 p103-104
[18] 亀島庸一著 「20世紀政治思想の内部と外部」 p107
[19] Batakovic, Dusan T. "The National Integration
of the Serbs and Croats: A Complete Analysis" Dialogue Nー 7/8, September-December
1994,
[20] ジョルジュ・カステラン/ガブリエラ・ヴィダン著 「クロアチア」 p20-21
[21] Batakovic, Dusan T. "The National Integration of the Serbs and
Croats: A Complete Analysis" Dialogue Nー 7/8, September-December 1994,
[22] Batakovic,
Dusan T. "The National Integration of the Serbs and Croats: A Complete
Analysis" Dialogue Nー 7/8, September-December 1994,
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