II ユーゴスラビアにおける混沌への序曲

 

A. パワー・ダイナミクス

a. チトーの死以前におけるユーゴスラビア

 

 何世紀もの間、南スラブ人の大部分あるいはすべては外部の権力、特にオーストリア、ハンガリー、ヴェニスおよびオスマン帝国によって分割され、支配されていた。1914628日、ユーゴスラビアの考えを信じた若いボスニア在住セルビア人のガブリロ・プリンツィップは、サラエボにてオーストリア・ハンガリー王の皇太子を暗殺し、それが第一次世界大戦を引き起こした。そして「南スラブ人の土地」を意味するユーゴスラビアが、第一次大戦後に立法君主制国家として成立した。その後1941年に、この王国は枢軸国によって侵入され占領された為、王国は廃止され分割された。第二次世界大戦後には、ユーゴスラビアは共産主義者主導の反枢軸抵抗運動であったパルチザンによって、連邦共和国として再度成立した。

 

 第二次世界大戦中、ドイツ及びイタリアは、スロベニアを分割した。コソボはイタリアに支配されていたアルバニアへと併合され、またハンガリーはバチカ、バラニャおよびメジュミュリェを併合した。ブルガリアはマケドニアを占領し、またモンテネグロはイタリアの保護国となった。また、ドイツ人はセルビアを占領した。ユーゴスラビアであったものの大部分は、クロアチアの大部分およびボスニアのすべてを含んだクロアチア独立国(Nezavisna Država Hrvatske, NDH)となった。NDHは、実際はドイツとイタリアのファシスト政権の命令による傀儡であり、またその政府はウスタシャによってコントロールされていた。アンテ・パヴェリッチ率いるウスタシャは、ナチスによるヨーロッパ在住のユダヤ人への大量虐殺に似た手段を用い、NDH内の約200万人に及ぶセルビア人を排除しようと試みた。さらにウスタシャは、NDHの中のロマ(ジプシー)、ユダヤ人および反ファシストのクロアチア人を虐殺した。

 

 その後、ドイツおよびイタリアのファシズムそしてそれらの協力者に対する武力抵抗が直ちに始まった。ドラザ・ミハイロビッチ大佐、他のセルビア人将軍および兵士達の率いるチェトニクと呼ばれるグループは、森林および山間部を奪還し、ドイツの占領軍に対して戦い始めた。

 

ユーゴスラビア共産党のクロアチア人リーダーであったヨシップ・ブロズ・チトーは、1941年、チェトニクのライバルとなる汎ユーゴスラビア抵抗組織パルチザンを構成した。チェトニク及びパルチザンは、緩やかで極めてランダムな協力状態から、公然とした衝突に至った。チェトニクがもっぱらセルビア人によって構成されており、また貧弱に組織されたものであったのに対し、「ファシズムに死を、人々に自由を」や「兄弟愛そして統一」等のスローガンを掲げたパルチザンは、ユーゴスラビア全体の民族から戦士そして支持者を取り付ける事に成功した。[1]結局より多くの人々に訴え、そして規律と共に良く組織されたパルチザンは、占領軍を破るのに卓越した役割を演ずる事となり、偉大とも言える粘り強さで枢軸国と戦った。

 

1945年には、チトーは首相として、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、マケドニア、モンテネグロ、セルビアおよびスロベニアの六つの共和国から成るユーゴスラビア連邦を設立した。さらに、ボイボディナとコソボという二つの地域がセルビアの共和国内に自治地区として認められた。そして、セルビアのベオグラードが連合の首都となった。

 

パルチザンのリーダーであり創設者でもあったチトーの下、ユーゴスラビアは国家経済が独裁的中央政府によってコントロールされるというソビエト連邦の忠実な複製として出現した。[2]また20世紀初頭には、オーストリアやドイツのようなゲルマン国家と競争するためにスラブ民族および宗教団体を結合しようとした、汎スラブ主義運動が存在した。ロシアは自身の影響を拡大させる為この運動の中心にいたのだが、ロシアの共産化後、スラブ国家における社会主義運動が支配的になっていった。[3]

 

チトーは1948年にソ連と断交後、彼はユーゴスラビア政府を地方に分散させ、徐々に抑制を緩和して行った。冷戦中におけるユーゴスラビアは、その比較的オープンで自由な社会、および非同盟国のリーダーとしての国際的な役割の為、共産主義諸国の中で実にユニークな存在であった。

 

1980年のチトーの死後、数年間に及ぶ経済恐慌および政治的・民族的紛争の増大は、1991年と1992年に起こった連合の解体へと結びついて行った。

 

b. ユーゴスラビアの多様性

 

ユーゴスラビアの人口は1991年の時点で23528230人を記録しているが、この人口は民族的に混合していた。1991年の国勢調査によると、セルビア人が人口の合計の36パーセントを占めていた。他はクロアチア人20パーセント、ボスニア人ムスリム(イスラム教徒)10パーセント、アルバニア人9パーセント、スロベニア人8パーセント、マケドニアのスラブ人6パーセント、「ユーゴスラビア人」(特定のエスニック・グループに属する事を断わった人々)3パーセント、モンテネグロ人 2パーセントおよび2パーセントのハンガリー人で構成されていた。政府はセルビア人、クロアチア人、ボスニア人ムスリム、スロベニア人、マケドニアのスラブ人およびモンテネグロ人の6つを民族として認めており、その為ユーゴスラビアはこれら南スラブ民族グループの明確な母国となった。セルビア人の人口850万人のうちの4分の1以上がボスニアやクロアチアなどセルビアの外部に暮らしており、一方、クロアチア人の20パーセントはボスニアやボイボディナなどクロアチア外部に暮らしていた。中でもボスニアとボイボディナの人口は特に混合されていた。1991年には、ボスニアの住民の44パーセントが自身をムスリム人、31パーセントがセルビア人、17パーセントがクロアチア人、そして5パーセントがユーゴスラビア人と自認していた。ボイボディナはセルビア人(人口の約51パーセント)、ハンガリー人、クロアチア人、スロバキア人、ルーマニア人、ルシン人および他の民族によるモザイクであった。 [4] (詳細については、付録Y-1を参照)

 

ユーゴスラビアにはセルボ・クロアチア語(又はクロアット・セルビア語)、スロベニア語およびマケドニア語の三つの公用語があった。最初のユーゴスラビアではマケドニア語はブルガリア語と親密な関係にあるにも関わらず、セルビア語の方言と考えられていた。セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒(ムスリム)スラブ人およびモンテネグロ人は全て、セルボ・クロアチア語の方言を話していた。クロアチア人とイスラム教徒スラブ人がラテン文字を使用した一方、セルビア人およびモンテネグロ人はキリル文字によってセルボ・クロアチア語を表記した。そして多くのクロアチア人が、彼らの表記文字を明確な文語だと考えていた。(詳細については、付録Y-1を参照。)

 

 ユーゴスラビアの民族グループを識別した最も重要な違いは宗教であった。クロアチア人およびスロベニア人がローマ・カトリック教徒である一方、セルビア人、マケドニアのスラブ人およびモンテネグロ人は伝統的に東方正教会のキリスト教徒であった。さらにイスラム教徒スラブ人およびアルバニア人は本来的にスンニ派であった。1953年の国勢調査では、ユーゴスラビアの人口の42パーセントが自身の宗教を正教会と宣言しており、32パーセントがローマ・カトリック教、12パーセントがイスラム教、1パーセントがプロテスタント、1パーセントが他のキリスト教徒、および12パーセントが何ら宗教的な関係を持っていないと宣言している[5]

 

c. チトーの死とユーゴスラビアの崩壊

 

 第二次世界大戦以前、ユーゴスラビアはヨーロッパで最も貧しい国のうちの1つであったが、チトーの下、ユーゴスラビアはある程度ではあるが、高度に発展した国へと変容していった。ユーゴスラビアはチトーの下で発展したにも関わらず、国の地方における経済格差は縮小されなかった。スロベニアとクロアチアの共和国北部は比較的発達していたが、セルビアは、ボイボディナとコソボを除き、スロベニアやクロアチアと比べると比較的に未開発であった。モンテネグロやマケドニアのような南部の共和国も、セルビア南西のコソボと同様に、大部分はまだ農業を営んでおり、貧しかった。この経済ギャップは全国的な緊張および執拗とも言える政治的衝突を引き起こした。(付録Y-2を参照)

 

 1980年にチトーが亡くなり、その後の世界的な不況および対外借款による締め付けがユーゴスラビア経済の危機を引き起こした。1985年までに、この危機は生活水準を1965年のレベルにまで引き落とした。チトーの後継者はどんな有効な解決策を打つ事ができず、この経済危機は社会的、政治的、および構造上の危機へと広がって行った。

 

 19904月から12月の間に、共産主義政権は東ヨーロッパの至る所で崩壊した。これを受けてリベラルな知識人は、ユーゴスラビア内の6つの共和国すべてにおいて、複数政党による選挙を奨励した。これらの選挙では、各共和国のどこにおいても、ナショナリズムを掲げた政党がほとんどの票を獲得した。共産党はセルビア・モンテネグロでのみ勝利したが、これら共産党はさらにセルビア・ナショナリストでもあった。こういった状況の下、「チトーのユーゴスラビア」に対する容認はどこにおいても減少していった。1988年、セルビア社会党党首のスロボダン・ミロシェビッチは、再度ユーゴスラビアを中央集権化し、セルビア人および共産主義の覇権を再主張するという攻撃的なキャンペーンを始めた。彼は、コソボとボイボディナの自治を受け入れず、コソボ在住者の大多数であるアルバニア人に対して抑圧的な行為を始めた。

 

 199012月から19916月までのポスト共産主義の共和国リーダー間における混沌とした交渉は、何からの形で新しい形態のユーゴスラビアを生産するという事に失敗した。199012月に行われた国民投票では、スロベニアが独立支持に投票し、ユーゴスラビアの分解が始まった。

 

d. 資本の流入と移り変わる視点

 

 貧しい南部からの「搾取」を非難したスロベニアおよびクロアチアは、ユーゴスラビアからの彼らの独立を主張した。結果、クロアチアおよびスロベニアの両国は、1991625日に独立国になる事を宣言した。

 

 自由市場による経済の世界では、貧しい地域がより裕福なものと資本を共有することができないので、国を統一させておく事にメリットはない。更に深刻な経済不況および1989年には年間2665%を記録したハイパー・インフレーション等が、独立への運動を促進した。 [6] (付録Y-2を参照)またクロアチアには、セルビア人に対する長い歴史上の反目があった。さらにスロベニアにおいては、人口の合計の87.6%はスロベニア人であり、従ってユーゴスラビアの他のエリアと比較してもそれほど混合が進んでおらず、スロベニア人達は地域の独立を宣言することを強いられた、と感じていた。

 

 チトーの死後、この多民族、多言語、多宗教の国をまとめ上げるだけの強力なカリスマを持った人物は存在しなかった。(付録Y-1を参照)社会主義の下では、社会主義のシステム自体が多様性に関心を持たない為、人々は宗教の違いに関心がなかった。しかしながら、何人かのナショナリスティックな政治家は、自由市場経済の下で人々のナショナリズムに対する欲望を刺激し、さらにこのナショナリズムを国家内部における自己の政治上の確固たる位置づけを強化する為に利用したのである。この国家をコントロールする道具としてナショナリズムを使用するという軽率な考えは、政治的混乱を引き起こしたが、この現象は特にセルビアにおいて顕著であった。

 

e.      スロベニアとクロアチアにおけるナショナリズムの発生

旧ユーゴスラビアの地図[7]

 

 自由選挙を行った最初のエリアはスロベニア共和国であり、199012月に行われた国民投票の結果、人口の94.7%の賛成により旧ユーゴスラビアからの独立を決定した。クロアチア共和国もまた新憲法を採択し、さらにユーゴスラビア連邦共和国からの分離権を宣言した。これら二つの国は、ユーゴスラビア連邦共和国を連邦制から独立国の統合体へと変更しようとした。しかしセルビア共和国は、この動きを分裂主義と批判した。

 

ユーゴスラビア軍によるスロベニアの分離独立の阻止の動きは失敗に終わったが、その一方、クロアチアにおいて戦争が直ちに勃発した。199112月まで続いたこの戦争において、クロアチア在住のセルビア軍はユーゴスラビア軍に加わり、急速に武装を遂げたクロアチア軍と戦った。国連の代表は、1995年まで残る事になるクロアチアのほぼ3分の1を占める領域に宣言されたセルビア・クライナ共和国を残したまま休戦協定を結んだ。これらの緊張の為、ボスニアとマケドニアは、旧ユーゴを主権国家共同体に改組する妥協案を提案した。[8]

 

f.       クロアチアの独立とドイツの役割

 

 1990年には、クロアチアのナショナリスト党であるクロアチア民主同盟の創立者であるフランジョ・トゥジマンがユーゴスラビア内におけるクロアチア共和国の大統領となった。トゥジマンは1970年代および再び1980年代初頭にクロアチア・ナショナリズムを擁護した為、服役を経験していた。彼が大統領として当選後、新しい政権と共和国内のセルビア人マイノリティの関係は急激に悪化した。クロアチア政府は、セルビア人をクロアチア警察、官僚および国有会社での仕事から排除し始めた。また第二次世界大戦中に枢軸国の傀儡国家としてクロアチアをコントロールしていたファシスト組織ウスタシャによって使用された歴史的なクロアチアのシンボルを、クロアチアが国旗として再導入した事に、セルビア人は身の危険を感じた。[9]

 

 ユーゴスラビアの分解および戦争は、1990年にドイツがクロアチアの独立を認識した事から始まっている。1990年には、東西ドイツの統一や、FIFAワールドカップにて西ドイツが優勝した事などの理由から、ドイツはユーフォリア状態(多幸感)にあった。そしてこのユーフォリア状態において、ドイツが合理的な決定を下す事は不可能であった。またドイツとクロアチアの間では、ババリア地方におけるローマ・カトリックの影響や、ドイツとウスタシャの関係、およびドイツにおけるユーゴスラビア人移民の3分の2がクロアチア人であるという事実等、歴史的な共感があった。さらに、ドイツにおけるセルビアに対する歴史上の反目も存在しており、それは1914年の皇太子フェルディナンドの暗殺や、第二次世界大戦中のチトーによる対ドイツのパルチザン闘争など歴史上の出来事から来ていた。こうした歴史背景は、ドイツの外務大臣ハンス・ディートリヒ・ゲンシャーによるスロベニアとクロアチアの独立の容認へと繋がっていった。その結果、クロアチアの全国テレビ局はクロアチアのドイツへの感謝を示す為、1992115日に「ありがとう、ドイツ(Danke Deutschland)」という歌を繰り返し放映した。しかしながらセルビアの全国テレビ局は、この歌をヒトラーの第二次世界大戦中のザグレブへの入場イメージと共に繰り返し放映した。[10]

 

 他の全てのヨーロッパ共同体(EC)諸国はクロアチアの独立の承認を拒否したが、それはこの容認がユーゴスラビアそのものを崩壊させてしまう危険性のあるナショナリズムの高揚を引き起こす可能性があったからであった。さらに、それはトルコ、ギリシャおよびアルバニアのような周辺の国のナショナリズムを刺激する可能性があった。特にフランスの大統領のフランソワ・ミッテランはユーゴスラビア連邦を支持する彼の位置を明確にし、ドイツを暗に批評した。

 

g.     クロアチアの独立に対する国際的承認

 

 ドイツの一方的な承認決定の為、このような国々が国家と認められる標準を満たしたかどうか判断する為の機関であったバダンデール委員会の権威は失落した。1992115日、バダンデール委員会はスロベニアとマケドニアは国家として認められる基準を満たしていると発表したが、クロアチアとボスニアはそうでないと判断された。しかしながら、ギリシャはマケドニアの独立に対し強く反対していた為、結局スロベニアおよびクロアチアだけが国家として承認されたが、ボスニアとマケドニアは承認されなかった。[11]

 

h. ボスニアにおける新しい問題

 

 その結果、悲劇は起こった。ユーゴスラビアの他の全てのエリアはナショナリスティックになり、それらは民族的背景に拠った新しい国家を設立する事を熱望したのである。多くの観測者がユ−ゴスラビア連邦の中におけるボスニアが内戦の起こる可能性が最も高いと考え、もしユ−ゴスラビアが解体すれば、そこでの紛争は特に血みどろのものになるだろうと予測していた。特にボスニアにおいては三つの公式な民族グループ、すなわちイスラム教徒スラブ人、クロアチア人、セルビア人のどれも、人口の過半数を占めていなかった。

 

1991年と1997年におけるボスニア内の民族分布[12]

 

 1990年の秋、ボスニアは複数の政党による初の選挙を行った。3つの主な民族によって構成された複数のナショナリスティックな政党が、一般投票のうちの76パーセントを占め、議会の240議席のうちの202議席を占めた。アリヤ・イゼドベゴビッチ率いるイスラム教徒スラブ人(ムスリム人)によるムスリム民主行動党が議会の34パーセントに当たる87議席を獲得した。セルビアのミロシェビッチと繋がっているラドバン・カラジッチ率いるセルビア民主党(SDP)が30パーセントに当たる71議席を獲得した。クロアチアにてトゥジマンの統治するHDZのボスニア支部であるボスニア・ヘルツェゴヴィナ・クロアチア民主同盟が、18パーセントに当たる44議席を獲得した。その結果、ボスニア人ムスリムのナショナリストであるイゼドベゴビッチがボスニア大統領になった。この三つのナショナリスト党は脆弱な連立政権を組織したが、1991年にユーゴスラビアが分裂し始めた時、それはばらばらになって行った。[13]

 

 ユーゴスラビアにおける民族的背景は非常に複雑であるが、特にボスニア(付録Y-1を参照)において複雑であった。チトーは、この多民族国家を統合する為には、共産主義の名の下にユーゴスラビアにおける人種差別主義者およびナショナリストを打ち負かす戦略が必要である事を知っていた。しかしクロアチアの独立の承認は、ユーゴスラビアの他の地域における宗教および民族間の反発を引き起こした。この敵対心は、己の利益の為にナショナリズムを使用した政治家によって強化させる事となった。

 

 注意すべき重要事項として、1991年にスロベニアの独立を阻止しユーゴスラビアの統一を維持する為に軍隊を送った人物はクロアチア人であるユーゴスラビア首相であった事がある。しかしこうした行為以外は、ユーゴスラビアを他民族国家として維持しようという努力はあまりなされなかった。

 

また、新しく独立したクロアチアと戦うように軍隊を派遣した人物はミロシェビッチではなかった。しかしながらスラボイ・ジジェクは、ミロシェビッチが1987年にコソボとボイボディナにおける一定の自治権を廃止した時点で、ユーゴスラビアの崩壊は始まったと指摘している。この為、ユーゴスラビアの微妙なバランスは崩れ、回復の見込みは無くなったのである。それ以来、ジジェクによると、ユーゴスラビアが存在するためには2つの現実的な方法だけしか残されていなかった。それは1)セルビア主導のユーゴスラビアになるか、あるいは2)穏健な連邦制から完全な地方分権が達成された共和国のグループへ、と変更するしかなかった。[14] 

 

i. アメリカ合州国の役割

 

 当初アメリカは、ユーゴスラビアに干渉する意図はなかった。当時の国務長官であったジェームズ・ベーカーは、ユーゴスラビアにおいてアメリカに対する国益はないと考えていた。当時のアメリカにおける最大の関心事はモスクワ情勢およびペルシア湾における情勢であった。ベーカーは、ヨーロッパ共同体(EC)がユーゴスラビアの責任を取る事はブッシュ政権とって「快適」だと指摘している。 [15] しかしこの時期には、NATOの機能に関してヨーロッパとアメリカの間に緊張があった。アメリカは、NATOの機能を保持し増強したがったが、ヨーロッパ諸国、特にフランスは、NATOの代わりに西欧同盟(WEU)により多くの力を与えたいという思惑があった。

 

j. ボスニアの新しい火種

 

 ボスニア紛争(19923月〜199510)は、スロベニアとクロアチアにおける独立戦争の延長であった。(付録Y-4を参照)ボスニアでは、ムスリム人、セルビア人およびクロアチア人がおり、またセルビア人はボスニアの独立に反対していた。セルビア人は戦争開始当初の三か月は優勢で、ボスニアの70%を占領したが、その後、クロアチア人とムスリム人が国の残りの部分を獲得する為、お互いが戦った。

 

 アメリカの国務次官でユーゴスラビアの専門家であったローレンス・イーグルバーガーは、ボスニアの独立を承認する事が、そこにおける戦争を防ぐだろうと考えていた。さらにイーグルバーガーは、セルビアとクロアチアによるボスニアの分割を回避することは可能だと考えていた。このアプローチは、クロアチアの独立を承認する事が戦争の回避に繋がるとしたハンス・ディートリヒ・ゲンシャーの戦略とかなり類似していた。ここでの重要なジレンマは、ECEC自身の仲裁にも関わらず、アメリカからの圧力を受けた末、19924月にボスニア政府を承認した、という事実にある。[16]

 

 アメリカは、もし戦争がボスニアへ拡大すれば、イスラム諸国家が彼らと同じ宗教を持っているボスニアを支援するだろうと考えていた。この為、イスラム諸国家がボスニア支持を表明する前に、アメリカはボスニアの政治基盤へと接近し始めた。アメリカによるこうした手法は、アメリカ外交の歴史と一貫している。

 

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[1] Rusinow, Dennison “YugoslaviaMicrosoft Encyclopedia

[2] Rusinow, Dennison “YugoslaviaMicrosoft Encyclopedia

[3]田中宇著 「変わるユーゴスラビア」20001019Tanaka News

[4] Rusinow, Dennison “YugoslaviaMicrosoft Encyclopedia

[5] Rusinow, Dennison “YugoslaviaMicrosoft Encyclopedia

[6] 千田善著 「ユーゴ紛争はなぜ長期化したが - 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任」p12

[7] On the Issues

[8] 千田善著 「ユーゴ紛争はなぜ長期化したが - 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任」 p15, 16

[9] Rusinow, Dennison. “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia

[10] 千田善著 「ユーゴ紛争はなぜ長期化したか - 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任」 p51

[11] 千田善著 「ユーゴ紛争はなぜ長期化したか - 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任」 p32-50

[12] Microsoft Encyclopedia

[13] Rusinow, Dennison “Yugoslav Succession” Microsoft Encyclopedia

[14]スラボイ・ジジェク著 「二重の脅迫に抗して」 (森山達矢訳) 「批評空間」第224号 太田出版 2000 p75

[15]千田善著 「ユーゴ紛争はなぜ長期化したが - 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任」 p66-67

[16] 千田善著 「ユーゴ紛争はなぜ長期化したが - 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任」 p71

 

(C) Copyright Shinya Watanabe

 

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