万博と国民国家 「もう一つの万博 ネーション・ステートの彼方へ」のために
渡辺 真也 スパイキー・アート・キュレーター
(雑誌「10+1」の記事を加筆・訂正したものです。)
私の目的は、万博の根本原理である国民国家に囚われない、
自由な美術展を創造する事にある。
万博と国民国家 アメリカの参加が意味するもの
クレオール文学者のモーリス・ロッシュは、19世紀に始まった万博は、西欧の都市国家から国民国家へ、そして市場経済形成へと近代化していく変遷の過程の産物であったとしている。
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1870年のドイツの統一に代表される国民国家の形成のプロセスの中で、歴史上万博はアンダーソンの言う「想像の共同体」やハバーマスの言う「公共圏」において、ナショナル・カルチャーという概念を作り出す機能をしたという。また彼は、万博はエリートに文化的政治形成、すなわち大衆のまわりに組み立てられつつある新しい政治的、経済的形成に対しての積極的な魅力と忠誠を促進させるものとして提供され、市民権、社会的メンバーシップなどをツーリスト的消費主義と都市コスモポリタニズムの中にもたらしたが、同時に大規模な社会的、階級的、性的、人種的分断をもたらしたと分析している。
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特にアメリカにおいて万博は歴史的に、戦略上のものとして考えられた点が重要である。新しき国家アメリカは、その求心力として強烈なナショナリズムを必要としていた。万博史家のロバート・ライデルは、アメリカは自国の進歩を他の国家と比較する場として、万博を用いたが、万博におけるこういった技術的、そして国家の発展の比較は、科学的人種主義(ソーシャル・ダーヴィニズム)へと結び付けられていったと述べ、
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アメリカ知識人、政治家、そしてビジネスマンの間の発展、人種的優越、経済発展におけるビジョンのコンセンサスさらにはイデオロギーの生成のために利用されたとしている。
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それでは、アメリカにおける万博の例を具体的に見て行こう。1898年オマハ万博では、ネイティブ・アメリカンのバンドに「星条旗よ永遠なれ」を演奏させ、また米西戦争の発端となった(アメリカ自身が爆破したとの説もある)メイン号の模型を“Remember
the Maine”というメッセージと共に展示した。
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その次にバッファローで行われたパン・アメリカ博では、植民地化したばかりのフィリピンを堂々と展示したが、この二つの博覧会を開いた当時の共和党大統領マッキンリーが、万博は進歩の象徴だ、と演説した矢先、オマハの万博会場で無政府主義者に射殺された史実は興味深い。
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1904年に行われたルイジアナ購入100年記念セントルイス万博では、アフリカからピグミー族が、アルゼンチンからパタゴニアの巨人が、日本からはアイヌが、さらにはジェロニモ周辺のネイティブ・アメリカンの重要人物と1000人にも及ぶフィリピン人が生きた見世物として展示された。
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さらに1926年に行われた独立150年記念フィラデルフィア万博では、クー・クラックス・クランが万博のイベントとして集会をし、そこで巨大な十字架を焼くという提案を主催者が受け入れているが、その後黒人の不満が爆発し、結局この企画は見送られた。
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今回の愛知万博へのアメリカのぎりぎりになっての参加は、万博の深層に眠る国民国家的枠組みを考える上で象徴的な出来事である。小泉純一郎が首相に再選され、自衛隊のイラク派兵を決定した直後の2003年11月18日、アメリカ合州国が参加を表明した。冷戦終了後、アメリカはアメリカ的ライフスタイルを世界に宣伝する場としての万博の意義を評価しなくなり、1988年に成立した法律で、国際博覧会条約に基づく国際博覧会への政府資金の支出を禁止しており、2000年にドイツのハノーヴァーで開かれた万博も再三の要請にも関わらず参加を拒否した。しかし今回、ブッシュはイラクおよびテロ対策で、日本の協力を必要としていたのだ。アメリカのユニラテラリズムが行き詰まってきている今、愛知万博参加はアメリカ政府にとって、安く、しかも効果的な国際協力政策推進の象徴としての意味を持っている。
Remember the
Maine, Remember Pearl Harbor, Remember September 11とまるでコンドラチェフの周期のごとく、アメリカは約50年おきに危機をあおり、戦争を仕掛け、領土を拡大してきた。Remember
September 11から派生したイラク戦争は、パールハーバーの国へと帰還し、藤井フミヤ製作のタワーの元で、ツーリスト消費主義とスペクタクルを撒き散らすのだ。
インターナショナリズムの崩壊と国民国家の限界
パブロ・ピカソが1937年のパリ万博にてゲルニカを展示したのはスペイン共和国パビリオン(人民戦線側)であったが、そのパビリオンのファサードには内戦で戦う戦士の顔と、アサーニャ大統領のメッセージが描かれていた。またこのパリ万博では、アルベルト・シュペーアが設計した鷹を据えたナチ・パビリオンと、労働者のモニュメントを上部に据えたソビエト・パビリオンがエッフェル塔の前で向かいあっていた。
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愛知万博の国連パビリオンには、ニューヨークの安保理ホールに飾られているゲルニカの織物の複製を映像化し、展示するという。
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この安保理ホールに飾られているゲルニカは、イラク戦争の直前に国連安全保障理事会前で行われたコリン・パウエルのスピーチの際に、青い布で隠されてしまった代物だ。
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当時、反戦運動で国連ビル前の1stアベニューを他のコロンビア大学やニューヨーク大学の学生と封鎖するなど必死だった私は、このニュースを聞いて愕然としたのを覚えている。
私が企画する美術展「もう一つの万博」には旧ユーゴのアーティストが二人含まれるが、NATOのユーゴ空爆は私にとってインターナショナリズムの終焉を意味する。ユーゴでは、国連安全保障理事会というインターナショナリズムの最高意思決定機関が何度も空爆の即時停止を発動したにも関わらず、アメリカ率いるNATOは人道介入を名目に空爆という非対称的でてっとり早い手段に出たのだ。日本はこのNATOの空爆を事実上支持したが、この瞬間、国連を中心としたインターナショナリズムは崩壊し、アメリカがイラク戦争を行う下地が完成した。さらにイラク戦争では、日本は国連を無視したアメリカを支持している。戦後50年以上一貫してきた日本の外交政策、すなわち国連安全保障理事会入り、という原則の目的は、アーミテージ米国務副長官が憲法9条改正を日本の国連安保理常任理事国入りの条件として提示された事からも分かる通り、
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、日本はアメリカの属国と成り下がった。
一方では国連の機能麻痺と同時にインターナショナリズムがもろくも崩壊し、スペインでのアスナール政権打倒に見られる左翼テロによる、反アメリカとしてのニューリージョナリズムがヨーロッパで広まっていく事になる。しかし、こういった問題が日本において十分議論されていない感が否めない。
インターナショナリズムの最大組織である国連の枠組みがアメリカと日本自らの手により崩壊してしまった現在、今回の万博の様に国民国家のレベルで世界について語るだけでは、コロニアリズムの問題から先へ進む事ができない。私たちが考えなければならないのは、先進国の利権ではなく、国の内部と外部、つまり国益という概念を解体し、さらに20世紀後半に表面化したポスト・コロニアリズムとグローバル・キャピタリズムの問題をどう解決していくか、地球規模で考える事ではないだろうか。
日本における万博と私たちの美術展「もう一つの万博 – ネーション・ステートの彼方へ」
昭和15年に行われる予定であった日本万国博覧会(大東亜共栄博覧会)では、戦時中にも関わらず、「東西両文化の融合」を謳っていた。この万博では秩父宮殿下を総裁とし、入場券には紀元二千六百年と記されていた。また、当初の万博予定地には明治天皇の死去に伴い明治神宮が建立された為、予定地は月島となった。なお、この万博は幻に終わってしまった為、この入場券を持っていた者は大阪万博の入場に利用できたという。
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また、大阪万博では、ハンパクアートが発生したが、大阪万博で太陽の塔にむかって15メートル疾走したところで機動隊に取り押さえられた全裸男ことダダカンが1996年の正月に竹熊健太郎に宛てて皇紀二千六百年と書かれた昭和15年の年賀状を送ったのは興味深い。
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ダダが発生したのは第一次世界大戦さなかのスイスであったが、日本のダダと万博史もこんな所でつながってくる。
日本の主催者側は今回の愛・地球博に参加する国のうち、一人当たりGNPが2975ドルに満たない国には支援金を出すと表明している。
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「もう一つの万博」に参加するアーティスト、マリーナ・アブラモビッチの母国であるセルビア・モンテネグロの一人当たりGDPは約1020ドルであり、同じく旧ユーゴから万博に参加するスロベニアの9440ドルの九分の一に満たない。支援金の申し出にも関わらず、セルビア共和国は今回の万博に参加を表明していない。これには、長引く戦後復興の影響が考えられる。
この様に、今回の万博は愛・地球を歌っていながら、戦争や多くの問題を隠蔽している感がある。そこで、私は、「もう一つの万博 ネーション・ステートの彼方へ」という美術展を企画し、万博の基盤となっている国民国家への疑問を投げかけているアーティストや、国民国家の構造そのものによって直接的な被害を受けたアーティスト、またグローバル資本主義に対して疑問を抱いているアーティストを集めてみた。この「もう一つの万博」は、非営利ギャラリー会場での展示と、国民国家をクロスオーバーするアーティストの滞在製作にて完結する。なお、非営利ギャラリーでの展示は、戦後60周年にあたる、2005年8月15日より開始し、9月11日に終了する。
1972年に日本に返還された沖縄にとって、今回の愛知万博は日本の一員として初めて参加する万博である。しかし、沖縄を巡る状態は改善されていないのが現状だ。73年に沖縄に生まれ、現在ニューヨークで活動しているアーティスト照屋勇賢は、全てのプロジェクトにおいて、彼が暮らしている環境に対し鋭い洞察力を持ってアプローチしている。
「結ーい、結ーい」は、2002年に東京で行われたVOCA展にて奨励賞を受賞した作品である。この混成作品では、照屋氏は伝統工芸として沖縄に伝わる紅型を利用し、着物を作成している。作品をよく見てみると、パラシュートや米軍の戦闘機が、菊の花や水しぶきとともに並行して配置されており、現代の沖縄における政治的緊張と沖縄の伝統を作品の中で上手く融合しているのが分かる。またジュゴンの周りを飛んでいるヘリコプターは、辺野古に建造される新しいヘリポートが沖縄に今なお生きているジュゴンの生息地域を侵食するのではないかという作者の思いが反映している。
旧ユーゴより セイラ・カメリッチ
また、「もう一つの万博」には2人の旧ユーゴスラビアの女性アーティストが参加する。一人はサラエボ出身のボスニアン・ムスリムのセイラ・カメリッチ、もう一人はベオグラード出身のセルビア人のマリーナ・アブラモビッチだ。1990年代のユーゴスラビアほど、国民国家の枠組みの問題に直面した地域はないだろう。ボスニア紛争はとても複雑な戦争であり、左翼知識人の間でもボスニア紛争は内戦かどうかで議論が割れる程であった。この27歳になる二人の女性は、同じ戦争における国民国家の問題を捉えている。ユーゴスラビアについて考える事は、ポスト国民国家の世界について考えるヒントを与えてくれる。
セルビア軍によるサラエボ包囲を経験したセイラ・カメリッチは、「スレブレニツァの悲劇」をテーマに作品を作っている。残念な事に、セイラ・カメリッチは父親をボスニア紛争で亡くしているが、戦争問題の難しさに直面した多くのアーティストは、ナショナリストになってしまったり、またアドルノが言った様に本当に作品を作る事を辞めてしまっていた。しかし、多くの男性アーティストが作品作りの困難さに直面している間に、カメリッチはそのトラウマを自らを被写体とした美しい作品“Bosnian Girl”へと軽やかに昇華してみせる。
1993年の春、国連はムスリムの為に6つの安全地域、すなわち国連平和維持軍が保護を担当する町を設立した。これらの町はサラエボ、ビハチ、ツズラ、ゴラジデ、スレブレニツァとゼパであった。1995年5月、再開されたセルビア側によるサラエボ空爆は、NATOによるセルビア軍への空爆という報復に遭う。その後、セルビア側は350人以上の国連平和維持軍の兵隊を人質に取るが、彼らは長期間の交渉の末、解放される。7月にはセルビア軍はスレブレニツァとゼパを侵略するが、スレブレニツァにおいては、セルビア軍はNATOの空爆援護を求める(この時、空爆は実現しなかった)450人のオランダ兵の目の前で、約7000人のムスリム男性や子供などを虐殺した。この事件以降、国連とNATOはこういった事件が発生した際に、紛争を終わらせる為により力に頼った解決を選択していく事になる。この作品ボスニアン・ガールはパブリック・アート・プロジェクトであり、このイメージはこの様に雑誌や新聞に掲載され、またポストカードとして町に出回る。
第一次大戦勃発場所であるミリャツカ川と鴨川
サラエボのトルコ人街と祇園
サラエボと京都の盆地構造 サラエボはこの盆地構造を利用し、セルビア軍に包囲攻撃を受けた
セイラ・カメリッチは2005年5月より1ヶ月京都に滞在し、「もう一つの万博」の為に特別作品を制作した。サラエボと京都は双方とも世界的な歴史都市であり、盆地構造や、街の中心を川が横切っている構造や、トルコ人街の木造建築と祇園の木造建築など、似通った点が多く見受けられます。
6年間に及ぶベルリンでのアーティスト活動を終えて日本へ帰ってきた柴田ジュンは、一貫して目に見えないもの、霊的なものを作品のテーマにしているアーティストである。今回、彼が製作するのは、アメリカ合州国の工作によって消されようとしている太平洋に浮かぶ小さな島、ナウル共和国の「もう一つの万博」の為のパビリオンである。
ナウル共和国は、太平洋の赤道の南に位置する小さな島国であり、58%のナウル人を含む約1万2千人の人間が暮らしていた。ナウルは1980年代半ばにはリンの輸出により、国民の平均年収は500万円にまで上昇、世界で尤も一人当たりの収入の高い国の一つとなった。また実際の労働は外国からの労働者によって成立しており、島民は鉱山による収入を配分されていたので、職業は公務員か無職がほとんどという国であった。しかし、このリン鉱山が1999年あたりで枯渇するという困難な状況に直面した。
国からの配当がなくなった国民達は、新しい収入を得る為に産業育成をしたのだが、そこで取り組んだのが金融であった。
しかし、全くの素人集団がやろうとした金融業は、結局はロシアマフィアやテロリスト達のマネーロンダリングに利用され、また見通しが甘かった故、国は事実上の破産にまで追い込まれて行く。さらに国はお金を払えばほぼ無審査でパスポートを交付していたのだが、これがテロリスト達に利用され、アメリカなどで捕まるテロリストのほとんどがこのナウル共和国のパスポートを所持していたという結果を招いた。
さらにオーストラリアはアフガニスタンからの難民を、借金の肩代りにナウル共和国に押し付けるなど、まさにやりたい放題。小さな島が難民で溢れかえってしまった。
アメリカはイラクを攻略する前にテロリストの資金の流れを止めて活動に制限を与えるという裏の戦略があった。
まずFBIが今年の初め頃からナウル共和国の電話回線を破壊。また船舶、航空などの交通手段を全て破壊または借金などの理由で差し押さえた。 このことによりナウル共和国は2003年の1月初旬から数ヶ月にわたり完全な孤島となり、一切の連絡が途絶える。丁度その頃オーストラリアの電話会社が電話網の修理の為にナウルに向かったのだが、衛星電話をもっているのにも関わらず、その後連絡がとれなくなっている。
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さらに時を同じくしてナウル共和国大統領が心臓病の治療の為にアメリカに亡命するのだが、2月頃には突然死亡。国家元首すら消えてしまった。
島国で食料の大半を輸入にたよっていた国であるナウルはどうなったかというと、未確認情報だが、大統領官邸が焼き払われたり、難民達が暴動を起こすなどの地獄絵図が展開していた模様である。つまり、イラク戦争が始まる前に、もうナウルにおいて戦争は始まっていたのだ。
ナウル共和国パビリオンは、ナウルから連想されられる、21世紀に表面化した情報化社会の欠陥を鋭く突いた、柴田ジュンによるオリジナル・パビリオンである。作品はナウル共和国における出来事のジャーナリスティックな面に留まらず、目に見えない圧倒的なものに対するアーティスト本人の反応へと多面的に展開して行く。
リスボン出身のイネス・パイスは、フランスとドイツで教育を受け、ベルリンとリスボンにてアーティストとして活動しているまさにユーロ統合の時代を感じさせるアーティストだ。彼女の白眉は、「チクアニア」と呼ばれる想像上の国家を作るという、イメージする事が全ての存在の一部であることを証明しようとするプロジェクトだ。彼女は世界を旅して行く過程で、他者と出会い、そこで個人的な意味で、そして文化、社会的な面において、自身の能力の限界と地平が開けていくのを感じたと言う。
彼女は道中、誰も彼女の名前を覚えられないにも関わらず、皆が彼女をポルトガル人として記憶している事に驚き、そして苛立つ。国籍というのは、未だに何らかの共同幻想を強化する方法として使われているのだ。しかし、彼女の興味は、国籍というのはそんなに重要な問題なのか、そして、どうして国籍を尋ねるのが名前を聞くのと同じくらいありふれた質問になってしまったか、という事である。その時私たちは、他者が自身をカテゴライズするという事態に対抗する可能性を持っていないのだろうか、また私たちは私たちの国籍に対する自立性を断言できないのだろうか?
“チクアニアはIPファンデーションによって作られた想像上の国です。それは全個人のユニークさ、そして全個人のある程度のプライバシーを象徴化します。チクアニアには形がありません。それは自由な場所なのです。それは中立であり、中立であり続けるはずです。それはどんな国にも位置しており、話されている言葉はあなたの母語です。それはそれを知っているすべての人に属しています。だれでも皆、個人的な経験、好み、恐怖や彼ら自身の個人的なビジョンにおいてチクアニアと関係する事ができます。チクアニアはまた歴史、習慣、家族の態度、氏族、文化などとリンクしたままどれだけ個人は独立したアイデンティティを宿す事で自由になるか、という心理学的、文化人類学的なリサーチの手段でもあります”とイネス・パイスは語る。
参加アーティストの勝間陵賀氏は異色の経験を持つ画家である。故郷の高知県片島から家出をした当時まだ十代の勝間氏は、大阪の路上でホームレスとして生活し始めたのだが、飯を食うお金すらなかった。そこで彼は、どうやったら収入を得て生き延びる事が出来るのかを真剣に考えた末、ペンとノートブックを手に入れて、通行人の似顔絵を書き始める事になる。当初、彼のドローイングはひどいものだったのだが、通行人は勝間氏のキャラクターに引かれ、彼の作品を買ったり、食事をあげたりしはじめた。次第に彼もドローイングをするのが楽しくなり、その時からプロの画家を志し始める。
この「もう一つの万博」では、勝間氏が展示会場に住み、訪問者の似顔絵を描く。もしも訪問者が勝間氏のドローイングを気に入ったのなら、彼らはドローイングと交換にアーティストに食べ物をあげなければならない。また、例えば勝間氏がシャンプーを切らしているのなら、アーティストはドローイングと交換にシャンプーを要求するだろう。展示期間中、勝間氏はお店で何かを買ったりするなどの個人的な出費を一切してはならない。このプロジェクトでは、勝間氏は彼のドローイングのテクニックと物乞いのテクニックだけで暮らしていくのだ。ホームレスやグローバル・キャピタリズムについて語ったアート作品がつまらないもので終わってしまっている今日に、ホームレスやトヨタの工場での組み立て作業を経験してきた勝間氏が製作するドローイングやペインティングには、特別のエネルギーが込められている。
著者:渡辺 真也
ニューヨーク大学大学院ビジュアル・アート・アドミニストレーション卒業。世界各地を一人旅する。自らアート団体「スパイキーアート」を立ち上げ、ニューヨークにてキュレーターとして活動中。現在「もう一つの万博 ネーション・ステートの彼方へ」のスポンサーを募集中。http://spikyart.org
[1]
Roche, Maurice “Mega-Events Modernity: Olympics and Expos in the Growth
of Global Culture” Routledge,
[2] Roche, Maurice P71
[3]
Rydell, W Robert. “All the World’s a Fair:
Visions of Empire at American International Expositions, 1876-1916”
[4] Rydell. W Robert P8
[5] Rydell. W Robert P108-114
[6] Roche, Maurice P46
[7] Rydell. W Robert P163
[8] Roche, Maurice P86
[9]
Mattie Erik “World’s Fairs” Princeton Architectural Press,
[10] “愛知万博の国連パビリオン、「ゲルニカ」映像化も”(読売新聞)2004年7月22日
[11]
“U.N. Security Council Anti-War Mural Hidden - covered-up for Powell
speech” by T. Reason
[12] “<アーミテージ発言>国連戦略に衝撃 改憲押し付けに反発も”【平田崇浩、中澤雄大】(毎日新聞)2004年7月22日(木)
[13] 串間努「まぼろし万国博覧会」P33
[14] 竹熊健太郎「箆棒な人々 戦後サブカルチャー偉人伝」P321
[15]
“Aichi expo organizer to support nations from 3rd world”
[16]
“